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「『勇気』。これだけです」 
赤星憲広、走り続けた9年間の矜持。 

text by

田口元義

田口元義Genki Taguchi

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photograph byKYODO

posted2009/12/14 12:15

「『勇気』。これだけです」 赤星憲広、走り続けた9年間の矜持。<Number Web> photograph by KYODO

「阪神・赤星引退」の速報が届いた直後、ファンは様々な思いを寄せていた。

「本当に引退するの?」、「誤報であってくれ!」。平面のモニターから映し出される無機質なインターネット掲示板に載せられたコメントですら、人の心が感じられた。

 残念なことにそれは誤報ではなく、赤星憲広は12月9日の夕方に引退会見を行った。

 理由は'07年から悩まされ続けていた頚椎椎間板ヘルニアからくる怪我の悪化だった。脊髄の損傷は身体の自由が利かなくなる恐れがあることはおろか、最悪の場合、命を落とす危険性もある。そのことが、赤星に苦渋の決断をさせた。

「今までの人生で一番辛かった」勇気ある決断。

 アスリートのなかには、グラウンドやリングといった主戦場で死ねたら本望だ、と意気込む選手がいる。今年引退した格闘家の武田幸三は、試合前には必ず遺書を書いていたし、「本当に死ぬ決意で走る人間なんていないけど、僕にはその気持ちがある」と、陸上選手の為末大は自らが抱く武士道を熱く語るなど、表現の手法はそれぞれだ。

 アスリートが持つ闘争心の最終地点が「死」だとすれば、それに勝る美学はない。しかし、本当に死を宣告、もしくはその危険性が高いと断言された人間が、死を公言しながら競技を続けることができるだろうか?

「プロとして100%のプレーができず、恐怖感を持ったまま試合に出ることを考えると身を引くべきだと感じた。よくグラウンドで死ねたら本望というけど、本望とは思えない自分がいた」

 赤星は命の重みを自分に言い聞かせるように、事実を説明した。

 レギュラーにこだわらなければ、代走要員としてでもあと2、3年はプレーできたかもしれないが、死という壁がそれを拒んだ。「今までの人生で一番辛かった」と本人が言うように、シーズン終了後から悩みに悩んだ末、辿り着いた答えが「引退」だった。彼は、勇気ある決断を下したのだ。

野村克也監督に見出された“勝つため”のスペシャリスト。

 赤星は勇気あるプレーヤーだった。

 プロ入り前は、言うなれば足だけの選手だった。大府高校、亜細亜大学、JR東日本と野球の名門チームでレギュラーとなれたのは、それなりに打撃や守備も評価されてのこと。ただ、今も赤星に「引退撤回」を促す野村克也氏の言葉を借りれば、「全てそつなくこなせて通用するのはアマチュアまで」である。

 プロ野球選手になるため、プロ野球選手として生きていくためには、己の立ち位置を見極めなければならない。それを理解し意識改革をしたにせよ、一流の選手になれる可能性などどこにもない。

 '00年、シドニー五輪の強化選手として阪神のキャンプに招かれた際、赤星の足が野村の目に留まった。

「当時の阪神で足が速かったのは高波(文一)くらいでしたが、赤星のほうが格段に速かった。それに驚かされましてね。平均的になんでもこなせる選手はいくらでもいる。チームを勝たせるためにはどうしてもスペシャリストが必要になってくるわけですよ」

 身長170cmと小柄な俊足選手に残された道は“足”しかない。加えて24歳という年齢にドラフト4位の下位指名である。高校、大学卒ならまだしも、社会人出身に与えられるチャンスはそう長くはない。プロへは行かず会社に残れば将来は安泰だったかもしれないが、赤星は平凡な人生よりも野球人として刺激を求めた。これも勇気ある決断だった。

<次ページに続く>

► 【次ページ】  「盗塁」ではなく「出塁」にこだわり続けた9年間。

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