胃潰瘍と4割
~イチロー35歳の楽観論~

芝山幹郎 = 文 ⇒この著者の記事一覧

text by Mikio Shibayama

photograph by Yukihito Taguchi

胃潰瘍と4割~イチロー35歳の楽観論~

関連アスリート・チーム:

チーム・選手名
イチロー
シアトル・マリナーズ

「イチロー、胃潰瘍発症」の第一報を聞いたとき、私は驚き半分納得半分の受け止め方をした。妙な反応だな、と自分でも思ったが、驚いた理由ははっきりしている。

 胃潰瘍が第一線の現役選手に珍しいからだ。30歳のベーブ・ルースが暴飲暴食のとがめで腹部良性腫瘍に悶えたり、名投手アディ・ジョスが結核性髄膜炎のため31歳で夭折したりした症例は過去にあるものの、どちらも20世紀初めの話だ。最近では骨の癌で引退を余儀なくされたデイヴ・ドラベツキーや心不全で急逝したダリル・カイルの例が記憶に鮮明だが、これとて異なるケースという印象が強い。もっとも、胃潰瘍の監督ならば枚挙にいとまはないのだが。

不吉な予感が現実に。それでも楽観できる理由

 一方、納得した理由を探すのにはちょっと時間がかかった。そして思い当たった。2008年夏あたりから、私は、イチローの面(おも)やつれがなんだか気になっていたのだ。もしかして内臓を痛めているのではないか、と消化器障害常習者の私は懸念した。あの痩せ方も、アスリートの通例からやや外れる。

 だが、その後のイチローは8年連続200本安打の偉業を達成し、今年春のWBCでも獅子奮迅の働きを見せた。つまり、私の懸念は取り越し苦労にすぎなかったといわれても返す言葉がないのだが、この手の不吉な予感は、得てしてのちのち逆襲に転じてくる。

 まあ、かかってしまった病は、治せるものならば治すほかない。そもそも35歳という年齢は、肉体的には一種の端境期だ。いかに天才イチローとはいえ、生身の体である以上、病に苦しめられるときがないとはいえない。だとすれば、イーグルスの歌ではないが「テイク・イット・イージー」だ。「負けることもあれば勝つこともある」と割り切り、内臓を休めることだ。その間に、衰えかけた動体視力や疲れの溜まった筋肉を回復させることができる――と楽観的に解釈することも可能なのではないか。

むしろ今年こそ打率4割が可能なのでは?

 私は、イチローの4割達成を阻んでいるのは年間162試合フル出場の疲労と目星をつけている。ならば、開幕直後の故障者リスト入りは、むしろ年間打数を600程度に減らす千載一遇の好機かもしれない。肉体を休め、ハートを充電して打数を減らし、4月中旬を自身の開幕時として、年間240安打を狙う。

 病み上がりの身には苛酷な目標設定かもしれないが、心も技も鍛錬十分なイチローならば、このコントロールが不可能ではないはずだ。つねづね私は、イーストウッドの映画とイチローの野球はできるだけ長く見たい、と公言している。お節介を承知でいうと、ここは息を深く吸い込んでしばしスローダウンし、安定した脈拍数を取り戻していただきたい。

幸運な胃潰瘍がイチローをさらなる高みへ

 イーグルスならば、「いまという時間は二度と戻ってこない」と歌うかもしれないが、野球とは基本的に「待ってくれる」スポーツだ。今季が不本意に終わっても来季があるのだし、イチローの前途にはきっとまだフリーウェイがつづいている。39歳の高齢で3割8分8厘の高打率を残したテッド・ウィリアムズの例はすぐ念頭に浮かぶし、「ミスター堅実」と称されたトニー・グウィンも、34歳から37歳まで4年連続で首位打者を獲得しているではないか。仕切り直しのあとで、イチローがまたまたヒットパレードを再開してくれることを、私は信じている。

■関連リンク► 8年連続200安打達成。イチロー、歴史に名を刻む。
► 敗北感と涙の先に。イチローを襲ったはじめての感情。
► 反射神経を越えた、イチローの思考。

筆者プロフィール

芝山幹郎

芝山幹郎

1948年金沢生まれ。東京大学仏文科卒。評論家・翻訳家。著書に『大リーグ二階席』『アメリカ野球主義』『映画は待ってくれる』『映画一日一本』『アメリカ映画風雲録』などがある。訳書はジョージ・F・ウィル『野球術』、スティーヴン・キング『ニードフル・シングス』『不眠症』など多数。「イチローとモウリーニョはいつまでも見飽きない」そうだ。新刊は、ロバート・ホワイティングとのロング対談『新・イチロー伝説』(ベースボール・マガジン新書)。
 


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