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徳島ヴォルティス踊る阿呆がやってくる。 

text by

樽谷哲也

樽谷哲也Tetsuya Taruya

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posted2004/12/16 10:20

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[12年越しの悲願]徳島ヴォルティス踊る阿呆がやってくる。

樽谷哲也=文

text by Tetsuya Taruya

 “踊る阿呆に、見る阿呆― 同じ阿呆なら踊らな損そん”という節回しで知られる阿波踊り。「一太郎」で名高いジャストシステム本社の所在地。かつて五つ子の誕生で一躍有名になった徳之島(鹿児島県)と混同される県。

 知ったかぶりもできないくらいに乏しい知識しか持ち合わせぬまま、徳島空港から車に乗ると、ポカリスエットにオロナミンC、ファイブミニなどの飲料製品の看板広告が目に飛び込んできた。いずれも、製造販売元は、徳島を代表する企業、大塚製薬である。

 四国には、プロ野球の球団はおろか、Jリーグチームもなく、プロスポーツ不毛の地であるとのありがた迷惑な視線が注がれてきた。いや、視線が注がれることさえなかった。

 その、四国は徳島に、来シーズン、初めてのJリーグチームが誕生する。母体は、来年で設立50周年を迎える大塚製薬サッカー部(大塚FC)である。県の東北端に位置する鳴門海峡では、毎日、潮の干満の際に、大小いくつもの渦を巻く。県下屈指の観光名所でもあるこの渦潮にあやかって、「渦」を意味するイタリア語「VORTICE」をもじった「VORTIS」という造語をひねり出し、「徳島ヴォルティス」とチーム名を定めた。

 県の人口はおよそ82万人。約8割を山地が占め、吉野川が県の北部に横たわる。古代、吉野川流域で粟がよく実ったことから阿波の国と称されるようになった、と伝えられる。

 戦後、父から受け継いだ製薬工場で、「オロナイン軟膏」や「オロナミンC」、「ボンカレー」を開発し、国民的商品に成長させた大塚正士は、徳島を代表する名士で、終生、大塚グループの総帥として君臨した。

 つるりとした禿頭で、凄みと愛嬌が同居したような顔の持ち主である大塚は、少壮の時分は胸のポケットを札束で膨らませて飲み歩くやんちゃ経営者であったし、晩年まで若い女に執心する艶福家でもあった。入れ揚げるホステスの腰に手を回しながら、耳元で「オロナミンCの原価なんてな、ほんとは1本につき……」と囁いては、相手の驚く顔をうれしそうに眺めるのであった。

 大尽遊びはしても、余計な失費を嫌う吝嗇家であり、貰い煙草を好んだ。そして、ひとたび経営者の顔に戻るや、「本業一筋」という哲学を繰り返した。それでも、陸上部と並んで、1955年創部の大塚FCを存続させてきたのだから、宣伝効果を見込みつつ、企業スポーツに一定の理解はあったのであろう。

 しかしながら、Jリーグへの参入について、大塚正士が「俺の眼が黒いうちは許さない」と息巻いたのだと、直接そう聞いた者は数少なかろうに、驚くほど多くの人びとがうんざりした様子で口々に話すのである。

 大塚FCをJリーグに参入させようという機運が草の根で初めて熟すのは、'93年のことである。サポーターをはじめ、県サッカー協会、若手経営者の集まりである青年会議所などが中心となって、翌'94年9月まで、連日、署名活動を展開した。その結果、24万人分が集まったというから、県民の10人に3人が署名した勘定である。のちになって“Jリーグバブル”と揶揄されることになる乱痴気騒ぎに、つまりは徳島県民も乗りかけたのである。

 年間の運営費は、20億円を超え、6億円から7億円の赤字が出ると試算された。たいそう過分に見積もった数字だが、ひとたび弾き出されると、それなりの重みを持って独り歩きする。当時は、冠スポンサーたる「責任企業」1社を立てなければならない決まりであったから、大塚製薬も二の足を踏んだ。

 当時、誘致活動の中心になったひとりである徳島県サッカー協会会長の藤田明は、実に苦い顔をして「あのショックで、私は何年も立ち直れなかった」と打ち明けた。

 「9割方、積木が積み上がっていたのに、完成直前で崩れたようなものでした。もうだめだ、二度とこんな大々的な活動はできないだろうと、そう思った。Jリーグの話は、その後何年も口にしなかったくらいです」

 当のJリーグはというと、観客数は早くも5年ほどで下降線をたどり始めた。高騰する選手の年俸も、各チームの経営を圧迫した。長引く不況がさらに追い討ちをかけたため、Jリーグは方針を転換し、「企業スポーツからの脱皮」を高唱し始めた。

  '99年にJ2が生まれたときも、サポーターが中心になって大塚FCの参入運動を繰り広げたが、'93年から'94年にかけての全県的な署名運動ほどには盛り上がらず、やはり挫折している。もっと深刻なのは、選手たちがこぞってJ2チームへ移籍していき、大塚FCの戦力が大きく低下したことであった。

 大塚FC公認サポーターズクラブ「AWA― SOUL」のメンバーは、仕事や学校の都合をやりくりして、試合に足を運びつづけた。

 大塚FCの経営母体である大塚グループに向けられるサポーターの眼差しは、敬いと畏れによって、綾のように織りなされている。

 「隣りの香川から、チームを譲渡してほしい、というオファーがあったとき、大塚はそれを蹴ってくれた」

 「フロントの理解があったから、うちらがバーベキューをやると、選手が来てくれたりした。でも、選手との距離が近すぎて、サポーターとはいえなくなった」

 「紅白戦もできないくらいに選手の数が減らされたときもあった。フロントとうちらが、すごく寒い時期だった」

 大塚FCを見る目も、親愛であるがゆえに、ときに遠慮会釈がなくなる。

 「佐川急便大阪SCに負けたとき、僕ら、まだ試合が終わらんのに、応援の横断幕をしまい始めた。そんな程度の試合やったから」

 「思い入れはあったけど、試合はつまらんかった。でも、応援はしつづけた」

 徳島県では、1年9カ月の間に3回も知事選挙が行われるほど県政が混乱を極めていた。

  '03年5月に行われた知事選に、中央官僚として徳島県庁に出向していた飯泉嘉門が出馬する。飯泉は、選挙活動にあたってマニフェスト(政権公約)をつくり、いわゆる無党派層である若い有権者の票を掘り起こすという狙いもあったろうが、その中に、ごく短い記述ながら〈四国初のJリーグチームの実現〉と盛り込む。そして、次点の候補に8489票差の20万6221票で辛勝し、最年少の知事となった。現在44歳である。

 東大法学部卒、旧自治省官僚という、絵にかいたような経歴もさることながら、'95年から2年間、埼玉県庁に出向し、財政課長として、日韓共催W杯の会場である埼玉スタジアムの整備に尽力した経験があった。また、旧郵政省に出向していた時期には、そのW杯の情報通信専門委員として大会運営に携わった。

 この飯泉知事、しゃべりだすと止まらない。

 「『四国の徳島』といわないと、福島と間違えられたりもする。でも、徳島ヴォルティスがJ2に参戦して全国で試合をするようになれば、そんなことはなくなるでしょう。もちろん、ビジネスとしての側面も必要ですが、単なる興行ではなく、地域に支えられ、地域を支え、ともに歩んでいく。だからこそ、逆に行政がかかわっていく意味もある」

(以下、Number617号へ)

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