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山瀬功治 「ブラジルに渡った頃のように」 

text by

城島充

城島充Mitsuru Jojima

PROFILE

photograph byNaoya Sanuki

posted2008/05/29 17:50

山瀬功治 「ブラジルに渡った頃のように」<Number Web> photograph by Naoya Sanuki

 美しいパスワークで相手の守備網を崩そうとするミッドフィルダーが多いなか、ボールを持つと卓越した足技で勝負をしかけていく山瀬功治は異端の存在かもしれない。

 今季のJリーグで彼の真骨頂ともいうべきプレーが見られたのは4月2日、第4節の横浜F・マリノス― FC東京戦だった。左サイドのタッチライン沿いでスローインのボールを受けとった横浜の「10」番は、足の裏でボールをコントロールしながら体を続けて回転させる『ダブルルーレット』と呼ばれるテクニックを披露、2人のディフェンダーを置き去りにしたまま、ゴール前へ鋭く切り込んでセンタリングをあげた。

 ニッパツ三ツ沢球技場は歓声ではなく、どよめきで揺れた。

 「山瀬のプレースタイルはやっぱり、あの男に似ている」

 教え子の活躍を目にするたび、札幌サッカースクール(SSS)の柴田勗校長は同じ印象を重ねていく。山瀬のプレーを見ると、20年も前に北の大地にやってきた日系ブラジル人、マルコ中林の魔法のようなボールさばきが脳裏に蘇ってくるのだという。

 「読みが早くて緻密な動きができるところ、足の裏を使ったテクニック、相手の意表をつくフェイントなんかが山瀬とマルコはそっくりなんです」

 フットサルでサンパウロ州のMVPに輝いたこともあるマルコをSSSの指導者として招いたのは、北海道にブラジルサッカーを一刻でも早く根づかせるためだった。

 雪の多い北海道では、グラウンドを使えない日が多い。必然的に室内サッカーで技を磨くことになるのだが、柴田は世界で一番室内サッカーが盛んだったブラジルにその手本を求めたのだ。

 父親に背中をおされた山瀬がSSSに入門したのは、マルコが来日する直前の1987年。彼はまだ、5歳の子どもだった。

 SSSは専用バスで選手の送り迎えをしていたが、山瀬の家はバスのルートから大きくはずれた郊外にあった。いつのころからか、彼の入門後に来日したマルコと、同じ時期にコーチに就任したネルソン松原の2人の日系ブラジル人が、背中よりも大きなリュックを肩にかけた男の子をワゴン車で送迎するようになった。

 現在はヴィッセル神戸でスクール事業部コーチの肩書きを持つネルソンは、マルコがいつも片言の日本語で、シートにちょこんと座った少年を笑わせていた光景を覚えている。

 「2人でじゃれあって遊んでいる感じ。それは練習場に着いてボールを蹴り始めても変わらなかった」

 マルコは札幌に1年間滞在したあと、ブラジルに帰国した。底抜けに明るくてとびきりの技術を誇る日系ブラジル人がSSSで指導したのは、後に代表の「10」番も背負う才能がボールをさわり始めたころのほんの一時期にすぎない。

 だが、柴田は「だから、マルコの影響を受けているんですよ」と言った。

 「感性の柔らかい幼児期に、どんな指導者をあててサッカーの第一次体験をさせるか。それが重要なんです。山瀬はマルコたちに、サッカーを心の底から楽しむブラジル人の感覚を無意識のうちに植えつけてもらったんだと思います」

心のコントロールに苦しんだ、じん帯断裂による長期離脱。

 柴田の指摘を伝えると、練習を終えたばかりの山瀬は「さすがにサッカーを始めたころのことはあまり覚えてないですね」と、不意をつかれたように口を開いた。

 みなとみらい地区にある横浜F・マリノスのクラブハウス。窓の外には、完成したばかりの高層マンションが並んでいる。初めてサッカーボールを蹴ってから、20年の歳月が流れた。多くの人が羨望の目で見つめる今の場所にたどりつくまで、山瀬は決して順風満帆なサッカー人生を歩んできたわけではない。

 度重なる膝の負傷で、彼の未来は何度も閉ざされそうになった。

 地元のコンサドーレ札幌で新人王に輝いた翌年の2002年8月、東京ヴェルディ戦で右膝の前十字じん帯を断裂した。チームが低迷してJ2に降格すると、より高いステージを求めて'03年に浦和レッズへ。リハビリから復帰したあと、ナビスコカップ優勝に貢献したが、'04年9月のアルビレックス新潟戦で今度は左膝の十字じん帯を断裂してしまう。

 「どの怪我をしたときも、その瞬間は痛かったし、落ちこみそうになりましたが……」

 一つひとつ丁寧に言葉を選びながら、山瀬は怪我について語り始めた。

 「でも、サッカーができなくなる不安に襲われたり、心が折れそうになることはありませんでした。ドクターから説明を受けて全治何カ月だって診断されると、手術をしてきちんとリハビリをすれば必ず復帰できると思いました。両膝を手術したといっても、なんとかなるだろうって。開き直りでも、楽観主義でもないのですが、怪我に対してはそういう受け止め方ができました」

 最初に右膝を手術したとき、右太ももの裏にある腱を移植した。腱の一つを失ったために右膝は今も深く曲げることはできないが、「柔道だったら無理だとドクターが言ってましたが、サッカーをするぶんには問題ありません」と、山瀬はまるで人ごとのように続けた。だが……。

 気が遠くなるようなリハビリの日々を耐えたアスリートを苦悩の淵に追い込んだのはメスをいれた肉体ではなく、心のなかに巣くっていた棘だった。

 彼はそれを「どろどろした感情」と呼んだ。

 「浦和に移籍した'03年のシーズンは初めて経験した関東の夏にも戸惑ったし、ところどころでいいプレーはできても、シーズンを通じてみたらよくなかった。そのことに葛藤というか、いらだちを募らせていたんです。自分のパフォーマンスの出来に一喜一憂したり、試合に出られなかったときは悔しい思いを隠せなかった。そういう、どろどろした感情が胸のなかにあったんです。ベンチにいるときはチームのことを応援しているけど、100%素直な気持ちで応援していたかというと、それは嘘だったと思います」

 怪我でボールが蹴れなくなる不安にうち勝つ強い心を持つ半面、とんがった自我をうまくコントロールできずに苦しむもう一人の自分がいる。人は誰でも多面的な性格を内包しているが、彼は後者の存在に悩み、出口を探し続けた。

 その葛藤はいつから、どんな形で芽生えていたのか。もし、葛藤の背後に彼が歩んできた特別なキャリアが横たわっていたとすれば、それは成長の代償だったのかもしれない。

 SSSで突出した才能を見せていた山瀬が、柴田の勧めでブラジルへサッカー留学したことはよく知られている。中学時代の2年9カ月間、北国で育った少年は地球の裏側で暮らし、本場のサッカーにふれた。

 「サッカーがより身近な存在になったし、コリンチャンスやサンパウロといったチームの同世代の選手たちと一緒にプレーしたときは、レベルの差にものすごいショックも受けました。でも、意外に思われるかもしれませんが、そうしたプレー面のことより、僕にとっては人間形成というか、すべてのものごとを自分の考えで判断し、自分の責任で行動できるようになったことが一番大きかった」

 ブラジルで経験したことについて話し始めると、山瀬はさらに雄弁になった。

 「一日一日をどう過ごせばいいのか。練習以外の時間は自由ですから、楽をしようと思えばできるし、自分に厳しくしようとしたら厳しくもできる。社会人になれば、みんなが普通に考えることなんでしょうけど、そうした自己管理能力を中学時代に養えたことが、本当に貴重な体験だったと思う」

 彼はそうしたことを「成長」というニュアンスをにじませながら語った。だが、自己管理能力を高めることは、同時に内面としっかり向き合う作業を続けることでもある。

 何をすべきなのか自分で考え、決断し、一人で行動する。10代の前半でそんな生き方を身につけた少年は、逆に自分を追い込みすぎてはいなかったか。

 帰国してSSSのジュニアユースに合流した山瀬について、柴田は「さまざまな戦術を深く理解できるようになった」。コーチの岩越英治も「プレー中に慌てることがまったくなくなった」と評価した。

 「日本では囲まれる前にボールを離せと教えますが、囲まれたときこそ、自分の技術を見せる一番のチャンス。そうしたブラジル人と同じ感覚をしっかり身につけてきた」と。

 だが、山瀬自身は自分のプレーにかすかな違和感を抱いていた。

 「なにか、しっくりいかなかったんです。自分は普通の人とは違う道を歩んでいる。ブラジル帰りなんだから、すごいプレーを見せなきゃいけないという気負いがあったのかもしれない」

 多感な時期を異国で過ごした15歳はずいぶん大人びて見えたのだろう。編入した札幌市内の中学では嫌みや中傷ではなく、同級生から「おっさん臭い」と言われた。北海高校に進んだあとも、サッカー部の監督から「お前の欠点は考えすぎるところだ」と指摘されたこともある。

 そしてJリーガーになってからも、内面を厳しく見つめる自らの視線は、肉体的な痛みよりも強く、彼を苦しめ続けてきたのだ。

 「自分の苛立ちが周囲に伝わっていることもわかっていた。でも……」

 山瀬は落ち着いた口調で続けた。

 「あるときを境に、変わったんです」

アテネ五輪代表からの落選を、前向きに受け止めた“変化”。

 浦和で2年目のシーズンを迎えた2004年の夏、きっかけは一冊の本だった。

 そのなかに、要約すれば『どんなものごとでも、うまくいくときといかないときがある。うまくいかなくても、そのときに全力を尽くせば、それでいい』という一節があった。

 ありふれた内容ともいえる人生訓だったが、「過剰なぐらいピリピリしていた」フットボーラーはその言葉に救われた。

 「ひと息つけるようになったんです。プレーを続けていれば良い試合もあれば、悪い試合もある。悪い試合があったとしても、自分が全力を尽くした結果だし、悪かった理由をきちんと分析して次に生かしていこうと考えられるようになった。いい意味で無欲になれた。もちろん、試合に勝ちたいとか、もっとサッカーをうまくなりたいという目標はあるんですが、そういうのとは別の次元でピリピリすることがなくなった。精神的に安定した状態でプレーができるようになったんです」

 ちょうどこのころ、山瀬をとりまく環境はあわただしくなっていた。ずっと名を連ねてきたアテネ五輪代表候補のメンバーからはずされたのだ。

 父親の功は、バイアスロン競技で1984年のサラエボ冬季五輪に出場したオリンピアンだった。親子二代にわたる五輪出場の夢が絶たれた現実を、メディアは失意のドラマとして伝えた。浦和のチームメイトで代表に選ばれた田中達也が彼のユニフォームを着て会見に臨んだことも、共感と同時にその悲劇性をふくらませたかもしれない。

 だが、山瀬自身は周囲の落胆や感傷をしっかりと受け止め、自分自身に棘を向けることもしなかった。そしてそのことで内面の進化を改めて確信したのだという。

 「もちろん、悔しい気持ちもありました。でも、次のチャンスにがんばればいいんだと、自然な形で前を向くことができたんです」

 「目標と欲は違うと思うようにもなれた」とも山瀬は言った。

 「欲は自分の成長を時に止めてしまうことがあるけど、目標はそれに向かって自然と前へ進んでいけますから」

 彼は何度も「自然と」「自然に」という表現を使った。自らのルーツをさらに古くたどるときにも、同じ言葉をくり返していたことに本人は気づいていただろうか。

 記憶にない風景のなかで、彼は陽が落ちるまで、あるいは体育館の利用時間が終わるまでマルコやネルソンとボール遊びをしていた。そして物心がついたときはもう、山瀬功治にとってサッカーは生活の一部だった。

 「記憶があるのは、小学校の2年生ぐらいからです。そのころはサッカーをすることが本当に楽しくて、もっともっとうまくなりたいと思っていた」と、山瀬は振り返った。

 それ以来、ずっとサッカーというスポーツに寄り添ってきたことを「すべてが自然な流れだった」とも。

 「将来、プロになろうと決意をしたこともないし、サッカーで生活していこうと覚悟を決めたこともありません。ただ、サッカーをずっと続けていくことが本当に自然な流れだったんです。だから、6年生の秋に柴田先生からブラジル留学を勧められたときも軽い気持ちで行くことを決めました。ブラジルという国がどこにあって、中学生で親元を離れて暮らすことがどういうことなのか、まったく考えなかった。ブラジルへ行ってサッカーがうまくなるのなら、行こうって。僕の頭のなかにあったのは、そんな思いだけでした」

 左膝のリハビリを終えて横浜に移籍した山瀬は'05年5月、前年まで所属していた浦和との一戦でピッチに立った。新たな本拠地となったスタジアムで彼がボールを持つたび、浦和サポーターから嵐のようなブーイングを浴びせられた。

 当時の彼は専門誌のインタビューに《どこでプレーをするかということより、自分がどんなプレーをするかのほうが大事》と答えていたが、その思いにいきつくまでの複雑な感情の綾を正確に表現するのは難しい。

 失敗をひきずらず、目標にむかって自然に前を向けるようになっても、それまで自分を苦しめていた、ものごとを深く考える行為はやめられなかったからだ。― 

 「毎日の生活のなかでなにげなく起こっていることで、そのときはなんの意味も持たないことでも、あとになって大きな意味をもつことがある。今の僕が常に思っているのは、その一瞬一瞬を大切にして自分らしいサッカーをしたいということです。自分らしいサッカーというのは、もし、僕を応援してくれる人がいるのなら、それは僕のプレーになにかを感じてくれるからですよね。ワクワク感であったり、ドキドキ感であったり。そのことは当然、意識しますし、僕が僕らしいサッカーをすることでその期待に応えられると思うんです。移籍に関しては、自分の思いだけで語れる問題ではないので……」

 横浜のユニフォームを着てからも、山瀬は新たな怪我と戦うことを余儀なくされた。

 '05年6月のアメリカ遠征で右太ももを肉離れしたのに続き、7月からは椎間板ヘルニアによる腰の痛みに苦しんだ。悩んだ末、'06年4月に手術に踏み切った。

 リハビリを終えてチームに復帰したころ、横浜のアスレチックトレーナーをしている荻野喜代治は全体練習のあと、一人で黙々とボールを蹴り続ける山瀬の姿を見つけた。

 「無理をするなよ」

 荻野が声をかけると、山瀬はうなずく素振りを見せた。だが、一時間後に再びグラウンドを見ると、満身創痍のミッドフィルダーはまだボールを蹴っている。

 「手術をした体は絶対に元の状態には戻らないけど、どこまで自分を追い込めば、もう一度ピッチの上で最高のプレーができるようになるのか。彼は自分の体を通じてそのことを知り尽くしてる」と、荻野は言う。

 「自己管理能力に優れているとでも言えばいいのでしょうか。ひょっとしたら、山瀬のように大きな怪我をくり返した人間は、自分自身のことを第三者的な目で見つめることができるのかもしれません」

 2010年のW杯南アフリカ大会出場をかけたアジア地区予選が、一つのヤマ場を迎えようとしている。あとしばらくすれば、岡田ジャパンの6試合で4ゴールをあげている山瀬は今よりもっと熱い視線を背中に感じるはずだが、本人は「代表にそれほど強いこだわりがあるわけじゃないんです」と言う。

 「代表のユニフォームを着てプレーすることはとても大事なことなんですけど、僕にとってそれよりも大事なのは、サッカーができるというシンプルなことなんです。代表を軽んじているわけではないし、より高いレベルでプレーすることはサッカーがうまくなりたいという目標にもつながる。でも、いろんなものをぜんぶひっくるめてサッカーというか……。うまく言えませんが、今の僕はチームではなく、サッカーという大きなもの、サッカー自体にこだわっているんです」

 怪我を繰り返し、ボールを蹴れない悔しさを何度も味わった。曲折だらけのサッカー人生だからこそ、支えてくれた妻やチームメイト、スタッフ、サポーターに対する感謝の気持ちは常に抱いている。

 だが、人それぞれに思いの伝え方は違う。

 インタビューの最後、山瀬は「サッカーに関してだけは、常に子供でいるというか、ずっとガキでいたいんです」と言った。

 それはサッカーが楽しくて生活の一部になったころ、何も考えなくてもすべてが自然な流れで進んでいったころのようでありたいという意味だろうか。

 「ガキ」という言葉を口にしたあと、26歳のフットボーラーは「純粋という言葉を使うのはちょっと恥ずかしいんで……」と照れた。

山瀬功治

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