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最強はノゲイラかヒョードルか。 

text by

布施鋼治

布施鋼治Koji Fuse

PROFILE

posted2004/08/26 00:00

 「うわぁ……」

 会場に設置された巨大スクリーンにエメリヤーエンコ・ヒョードルの傷口がクローズアップされるごとに、4万7692名(主催者発表)の大観衆はどよめいた。右目の上にできた長さ4㎝程度の傷。血の出方から察して、相当な深さであることも理解できた(結果、9針縫う裂傷)。

 試合が中断してからあまりにも長い時間が経過していたが、いくら何でも続けるのは無理。そんなムードが場内を支配し始めるのに時間はかからなかった。

 ロープにもたれる形でリングドクターの処置を無表情のまま受けていたヒョードルだったが、テレビモニターで開いた傷口を見せられると静かに微笑んだ。その表情が全てを物語っていた。いくらヒョードルがタフなファイターだとしても、無理をするのは限界がある。仮に試合を強行したとして、傷口から雑菌が入ったら破傷風になる恐れもあった。

 アクシデントは偶然のバッティングによって発生した。1回、グラウンドで足をきかせて距離をとるアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラに対してヒョードルが勢いよく飛び込むと、頭と頭がぶつかってしまったのだ。勝負はノーコンテスト。主催者のDSEは年内の再戦を約束したが、具体的な日時は決まっていない。

 ヒョードルの傷から察すると、10月31日のPRIDE28で組むことは難しそうだ。あらかじめルールで定められていた事項とはいえ、この裁定にノゲイラ陣営は納得していないのか、会見場には姿を現さなかった。

 ただ、それまでの試合の充実した内容や準決勝にインパクトがあったせいか、ブーイングを飛ばす者は少数派。反対に観客席からは「ヤバいよ」「やらせるな」という声が聞こえてきた。極上のエンターテインメント見たさに揺れながらも、大観衆はモラルを優先した。アンハッピーエンドに終わったとはいえ、それがせめてもの救いだった。

 アクシデントが起こるまでの攻防を振り返ってみると、ヒョードルが単発ながらも得意のパウンドをヒットさせ、徐々に試合の主導権を握りかけていた。1年5カ月前、両者の初対決と重なり合う攻防だ。

 いくらノゲイラが大逆転男といわれようと、緒戦(準決勝)で負ったダメージを比較すると、ヒョードルにアドバンテージがあることは明らかだった。何しろノゲイラはセルゲイ・ハリトーノフとの一戦で結果的に打ち勝ちはしたものの、相当数のパンチを食らっている。とりわけボディに受けたダメージは深刻そうに見えた。準決勝終了後、咳き込みながら控室に消えたノゲイラを目の当たりにするとそう思わざるをえなかった。

 対照的にノゲイラ戦を迎える直前のヒョードルは無傷に近い状態だった。注目の小川直也戦は予想だにしなかった秒殺劇。小川を圧倒した左右のロングフックを見ると、7月下旬にヒョードルの故郷スタールイ・オスコル市で見た強化キャンプを思い出した。

 両手に鉄製の重りを握りながらのシャドーボクシング。ウィービングやヘッドスリップなど上半身の動きも非常にサマになっていた。実際に小川と対峙すると強引に間合いを詰めて打ち合ったような気もするが、防御の技術が上達していたからこそ、そうした冒険もできたのだろう。技術的な進歩がなければ、現在のPRIDEで生き残ることは難しい。

 ノゲイラに打ち込むパウンドを見ていると、重さ34㎏の鉄製の斧を振り上げて古タイヤに叩きつける練習と重なり合った。その腕の軌道はパウンドを打つ時のそれと非常に似ていたからだ。もともと5年前からヒョードルはバーベルや筋トレマシンの類を一切使っていない。実戦で役立つ筋肉は寝技やボクシングのスパーリングによって養う。基礎体力は前述の斧を使ったトレーニングや懸垂によって蓄える。ヒョードル以外のヘビー級の選手で楽々と何十回も懸垂をこなす選手を私は知らない。

 バレリーナのようにクルクルと何度も回ったあと、シャドーボクシングを行う練習も目を引いた。そうすることで三半規管の機能を高め、実戦時に頭が回ってもすぐに体勢を立て直すことができるという。この説明を聞いた時、2回戦でケビン・ランデルマンに豪快な反り投げを決められながらも、すぐに逆襲に転じることができた理由がわかったような気がした。あらゆる戦局を想定して現PRIDEヘビー級王者は技術を向上させながら闘っている。

 対するノゲイラも成長の跡が見受けられた。準決勝では執拗にパウンドを打ち込もうとするハリトーノフに足をきかせ、決定打を許すことはない。スタンドの打撃ではスピードと精度の高い一撃で今大会のダークホースを圧倒した。

 ふたりの闘いぶりを見ていると、進化したグラップラー(組み技系格闘家)の時代が到来したと思わずにはいられなかった。奇しくもベスト4に生き残った4名は全てグラップラー。ただ、いずれも闘いのベースとなる組み技の技術を活かしながら、打撃の技術を取り入れることにも貪欲だ。そうした中、ヒョードルとノゲイラが勝ち残った最大の理由は、どんな逆境でも覆せる能力を持ち合わせていたからだろう。残念なのは、どちらの能力が優れているのかわからないまま、熱戦に終止符が打たれたことだ。

 決勝戦だというのに、優勝者も2位もいない。決まったのは3位(小川とハリトーノフ)のみ。主催者側はオリンピックのメダルよりも大きいサイズの金と銀と銅のメダルを用意していたが、事態が事態だけに表彰式を行うことはできなかった。日本の格闘技史上、トーナメント戦の結果が出ない興行は今回が初めて。記録的な猛暑が続く中、この日は久しぶりに雨が降った。

 終わらないヒョードルとノゲイラの夏。

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