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阿波野秀幸「ホームランの後の記憶がないんです」 

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posted2005/04/28 00:54

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[1988年10月19日近鉄vs.ロッテ]阿波野秀幸「ホームランの後の記憶がないんです」

編集部=文

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杉山ヒデキ=写真

photograph by Hideki Sugiyama

 1988年10月19日、川崎球場。近鉄バファローズは奇跡の逆転優勝を目指し、ロッテ・オリオンズとのダブルヘッダーに臨んでいた。近鉄が西武ライオンズを抜いて優勝するためには、このダブルヘッダーに続けて勝つしかなかった。 '87年に新人王を獲得し、若きエースとして活躍した阿波野秀幸は一生忘れられない試合として、このダブルヘッダーをあげる。完投から中1日で、昼夜の連続登板を果たした阿波野は、川崎球場の長い一日をこう語り始めた。

 「ダブルヘッダーで二つ勝つというのは本当に難しいものなんです。しかも優勝のためには、残り4試合の時点で三つ勝たなくてはいけなかった。苦しい状況でしたね」

 残り4試合となってからの初戦、西宮球場での阪急戦に阿波野は登板する。9回を投げきったが近鉄は1対2で星を失った。

 「この敗戦で精神的に追い詰められたんですが、西宮球場から宿舎に移動するバスの中で、珍しく仰木彬監督がマイクを握ったんです。仰木さんらしい計らいで、冷たいビールも用意されていて、『ここまでよう頑張った。まあ一杯やれや』と。いい気分転換でしたね」

 西宮から川崎に移動した近鉄はロッテに12対2で快勝し、翌日、運命のダブルヘッダーに挑む。この試合は第1試合は延長なし、第2試合は4時間を超えれば、新しいイニングに入らないという変則的なルールで行なわれた。初戦はロッテが先制、近鉄が8回に3対3の同点とし、迎えた最終回。梨田が勝ち越し打を放ち、1点のリードを奪った。9回裏は守護神・吉井理人が登板していたが、先頭打者に四球を与え、審判に抗議するなど興奮したため、仰木は急遽、阿波野をマウンドに送った。

 「当時、抑えは吉井というのがチームの形でしたから、『このまま最後まで頼むぞ』と祈るような気持ちでした。ですから、吉井の後を受けて登板したときはまだ、心の整理ができておらず、2死満塁にしてしまった。最後は三振を取ってなんとか勝つことができたんですが……」

 ダブルヘッダー初戦に勝利し、近鉄は逆転優勝に望みをつないだ。

 「次の2試合目まで試合間隔がわずか30分しかなかったんですが、この短い休息時間に、“阪急ブレーブス身売り”のニュースが耳に入ってきた。集中力が削がれましたね。どうしてこんな時期に発表するんだろうと。今までの近鉄だと、1戦目のような劇的な逆転勝ちをすれば絶対に乗ってくるんですけどね」

 2試合目もロッテが先制するが、近鉄が真喜志康永の本塁打などで3対1と勝ち越す。しかし7回に先発高柳出己と二番手の吉井が打たれて同点となる。だが8回表、ブライアントが勝ち越しのソロホームランを放って4対3。このリードを守りきれば、近鉄の逆転優勝が決まる。8回裏、胴上げ投手となるべく、再び阿波野がマウンドに上がった。

 「仰木さんも『これでいける』と思ったらしいですがそりゃそうですよ。ブライアントという役者が打ったんだから。そのとき急にプレッシャーがのしかかってきたんです」

 8回裏、阿波野は先頭の愛甲猛をサードゴロに打ち取り、打席に4番高沢秀昭を迎えた。

 「カウント2-3でした。キャッチャーの山下さんのストレートのサインに首を振って、当時、僕のウイニングショットだった、スクリューを投げ込みました」

 高沢は阿波野の決め球を振りぬき、打球は左翼席に突き刺さった。4対4の同点。

 「そんなに悪い球ではなかったはずですが、少し高かったかもしれません。その分うまくバットに拾われてホームランにされてしまった。正直言って、立っているのが辛かった。エースは“負けた”というポーズをとってはいけないと教え込まれていましたけど、あの時は、ひざに手をあてて立つのがやっとでした」

 阿波野は放心状態ながら、なんとか後続を討ち取る。9回表、無得点に終わった近鉄は4時間という制限があるため、一分でも早くロッテの攻撃を終わらせたかった。ところがロッテは続投する阿波野を、無死一、二塁と攻める。ここで阿波野がけん制球を投じ二塁ランナーの古川を刺したが、このプレーに有藤監督が猛抗議。無情にも時が過ぎていく。

 「次の日、試合を振り返ったら、本塁打の直後から、9回2死満塁で淡口さんがレフト前ヒットになりそうな当たりを地面スレスレで捕ってくれた場面まで記憶が飛んでるんです。どうして満塁になったのか覚えていない。ただ、あの後ビデオを見返すと、有藤監督の抗議があったことなどは覚えていましたね。

 そういえば抗議の間に、スタンドから“おいっ、時間がないんだぞ”という野次が聞こえてきて、『あっそうだ、第2試合は時間制限があるんだ』と気がつきました。そこからちょっとイライラしていました。ロッテの監督として抗議をするのはわかるけど、早く終わってほしいと。9分間の中断でしたが、あそこまで長くなるとは思わなかった。近鉄にとっては痛かった。制限時間の中で、一つでも多くのイニングにいけるかどうかでしたから」

 10回表、近鉄は最後の攻撃にかける。ブライアントが出塁したが羽田の併殺打で3アウト。残り時間から考えて、11回に入る可能性はほとんどなく、優勝はほぼ絶望となった。

 「10回表の攻撃が終わって権藤コーチから交代を告げられました。10回裏は加藤哲がマウンドに上がったんですが、彼には闘志がありましたね。交代した投手は投球練習ができるんですけど、加藤は『一球もいらないからプレーボールをかけてくれ』と審判に言ってるんです。確か残り時間は3分でしたから、3分で終わらせるつもりだったんでしょう。僕たちは諦めていたんですけど、加藤だけがマウンドに走っていった。だけど四球を出してしまってジ・エンド。僕は奥でメンテナンスしていたんだけど、そこから一歩も動けなかった。

 ホテルに帰ると、行なわれなかった優勝祝賀会の準備が整っていました。当時の近鉄の素晴らしさだと思うんですけど、『慰労会をやろう』ということになりました。仰木監督もそこにきて、『ようみんな頑張った』って。まあ裏話ですけど一気飲みもしましたね。みんなで騒いで忘れようぜと。それからそれぞれが、銀座などに繰り出しました。朝日を見て帰ってきて、翌日の新幹線は酒臭かったですよ」

 翌'89年、近鉄はオリックス、西武と三つ巴の激戦を繰り広げ、129試合目となる10月14日、マジック1でダイエー戦を迎えた。この年19勝8敗の成績で最多勝、最多奪三振のタイトルを獲得する阿波野は、この試合に7回から登板していた。

 「1年前に打たれたホームランを一生忘れない、という気持ちで投げ続けていました。あの時、山下さんは僕のストレートを信じて要求してくれたのに、僕はスクリューを選んで高沢さんにホームランを打たれた。やはりどんなに球が遅い投手でも、自分のストレートに自信を持たなければ駄目なんです。だから同じような場面になったときには、絶対に変化球は投げないと心に誓っていました」

 9回裏2アウト、得点は5-2。あと一人で近鉄の優勝が決まる場面、阿波野はマウンドで決意を固めていた。

 「最後の打席、僕はストレートしか投げるつもりはありませんでした。9球連続でストレートを投げ続けたと思います。山下さんも僕の気持ちはわかってくれていてサインを出さなかった。ぼくにとっては1年越しのリベンジでしたから。あの年の最終戦は、1年前と逆に、絶対に投げたかったですしね。

 100勝しているわけではないし、威張れるような実績もないんですけど、あの試合は、胸を張って伝えられる経験ですね。このときの仲間と今でもよく会いますけど、一緒に戦った仲間はほんとにいいもんですよ」

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