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'90年代のカリスマ、
立嶋篤史6年ぶりの再起。 

text by

布施鋼治

布施鋼治Koji Fuse

PROFILE

photograph bySeiko Kanashiro

posted2009/09/17 06:00

'90年代のカリスマ、立嶋篤史6年ぶりの再起。<Number Web> photograph by Seiko Kanashiro

19歳で全日本キックのフェザー級王者となり、前田憲作とのライバル関係でも注目を浴びた

 K-1やPRIDEがスタートする以前にカリスマだった格闘家といえば? '90年代の格闘技界を知る者ならば、誰もが立嶋篤史の名を口にするだろう。全盛期には“キック界初の1000万プレイヤー”として名を馳せ、大一番ともなれば、5000人規模の会場をフルハウスにするだけの観客動員力を誇っていた。誰と闘っても好勝負になることが多く、リベンジマッチにもめっぽう強かったからだ。

K-1に背を向け、打倒ムエタイに情念を燃やした。

 立嶋は情念の男でもあった。元いじめられっ子で、負のパワーをプラスに転じる能力にも長けていたのだ。「許されるならば、対戦相手を後ろからナイフで刺してやりたい」といった問題発言で、我々の心を何度えぐったかわからない。

 闘いにポリシーを持つ男でもあった。今でこそキックボクサーの大半はK-1を目指すようになったが、当時はヒジ打ちなしの3回戦が基本のK-1ルールにアレルギー反応を示す者も多く、打倒ムエタイを目指すのが主流だった。その急先鋒が立嶋で、キックやムエタイの定番ともいえるヒジ打ちありの5回戦にこだわり続けた。たとえK-1人気がキックのそれを追い抜いても、立嶋がK-1にすり寄ることはなかった。

再起しなければ「僕は単なる残念な人に終わってしまう」。

 しかし、キャリア50戦の前後から黒星が目立つようになり、気がつけば、団体を渡り歩くようになっていた。'03年12月、交通事故に遭って全治11カ月の診断を受けると、立嶋は表舞台から消えた。その名が久々にクローズアップされたのは'06年秋。自宅に侵入した泥棒を追跡して取り押さえた事件がニュースになったのだ。立嶋はシングルファーザーになっていたが、現役を諦めたわけではなかった。

 その後、船橋に自ら代表を務めるASSHI-PROJECTを設立。後進の育成に励む傍ら、自らも選手として本格的な練習を再開した。立嶋の傍らでは、小5のひとり息子も一緒に汗を流す。

 9月20日に組まれた若手との6年ぶりの一戦は、満を持しての再起ではない。昨年工事現場で負ったケガが完治していないのだ。それでも37歳になった立嶋は、もう待っていられないと叫ぶ。

「このままリングに上がらなかったら、僕は単なる残念な人に終わってしまう」

 16歳でデビューして21年、もう十分だという声は立嶋の耳に届かない。

■関連コラム► 世代交代がすすむキック界の「現在」。 (2006年12月7日)
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