SCORE CARDBACK NUMBER

高知キャンプを支えた“名物先生”の死を悼む。 

text by

永谷脩

永谷脩Osamu Nagatani

PROFILE

posted2005/02/17 00:00

 高知の老舗料亭、得月楼の白梅のつぼみがほころぶ頃、球春がやって来る。かつては、宿毛に近鉄、大方に南海、高知に阪急、春野に西武、安芸には阪神と5球団も来ていたこともあった。しかし、今年この地で2月1日からキャンプを行なう球団はない。そんな状況を憂い「どげして、高知が駄目なんじゃかのう。ワシの目の黒いうちにもう一度どこかを呼びたいんじゃ」と言っていたのが千屋崎病院の院長だった高橋正六である。その正六先生が1月22日に81歳で亡くなった。

 ダボダボのブレザーにかかとをつぶした運動靴を履き、帯屋町を歩く姿は高知の名物で、野球人を愛し、多くの監督、選手の世話をした。東尾修はなにかにつけ相談に訪れ、上田利治は、千屋崎病院で実母の最期を看取ってもらった。山田久志と一晩で12軒はしごしたり、後援会の発起人も務めた権藤博の優勝を祝う会では、歌手の堀内孝雄の前で『恋唄綴り』を熱唱するという茶目っ気を持った人でもあった。足を悪くしたこともあって、'03年の阪神の安芸キャンプでは正六先生のために星野仙一が肩を貸し、手をひいて階段の昇り降りを手伝っていた。病室には'76年に阪急が日本一になった時に贈られた、投手全員の感謝の言葉が刺繍してある壁掛けが飾られていた。

 1月28日の本葬には、掛布雅之、権藤博がかけつけた。「高知じゃああんなに人気があるのに、掛布はなんで監督になれんかのう」と掛布が監督になる日を心待ちにしていたが、それを見ることはできなかった。

 中央球界にも太いパイプを持ち、高知の政財界のフィクサー的存在。遠戚にあたる吉國一郎元コミッショナーは、そんな正六先生を「清濁併せ呑んだ男」と評していた。実際、暴力団関係者にも睨みをきかせ「ワシの元気なうちは手を出すな」と、揉め事になりそうな件をうまく収めたのも1件や2件ではきかない。そのおかげで、若い選手たちが高知のキャンプでは、夜の街で安心して羽を伸ばすことができたのだった。

 正六先生のような人間がキャンプ地を支え、選手が野球に安心して打ち込める環境を作ってきた。信念は「義あってこその理」という大正生まれの硬骨漢の死は、球界再編が進むなか、プロ野球の一時代が終わったことを告げている。

ページトップ