NumberEYESBACK NUMBER

引退を決意した高橋尚子の“限界”。 

text by

黒井克行

黒井克行Katsuyuki Kuroi

PROFILE

photograph byTomoki Momozono

posted2008/11/20 00:00

引退を決意した高橋尚子の“限界”。<Number Web> photograph by Tomoki Momozono

 「高橋尚子引退記者会見」の案内ファクスが流されたのは、10月28日早朝のことだった。3週間後に迫った東京国際女子マラソンで再び“Qちゃんスマイル”を見せてくれるものと信じていただけに、ファンや関係者の驚きは大きなものとなった。

 記者会見では、彼女の口から初めて「限界」という言葉が聞かれた。「精神的にも肉体的にも」と。これまでどんな厳しい練習にも音を上げず、一切の手抜きを許さなかった高橋ゆえに、その言葉は重く響いた。「完全燃焼」という言葉で引退の理由を説明したのも驚きだった。まだレースを走ってもいないのになぜ? 一体、彼女に何があったのか?

 '05年5月、高橋は長年師事してきた小出義雄監督から独立し、「チームQ」を立ち上げた。そして11月の東京国際で、肉離れを抱えながらも復活の走りで優勝した。彼女はこの時、「あきらめないで頑張れば夢はかなう」を伝えるメッセンジャーだった。しかし今年3月、北京五輪を目指して臨んだ名古屋国際では自身最低の27位と大きく沈み、再びオリンピックの夢はかなわなかった。

 この時点で、新聞やテレビでは「引退」の文字が遠慮なく飛び交うようになる。だが彼女は、「東京、大阪、名古屋の国内三大女子マラソン連続出場」という超人的な計画を発表し、引退どころか気合の入ったファイティングポーズで、雑音を打ち消してみせた。それが、まだ半年余り前のことだ。引退と聞いて誰もが耳を疑っただろう。

 しかし、会見で彼女が口にした「限界」「完全燃焼」という言葉に隠れた意味をたぐり寄せれば、引退の真相が少しずつ見えてくる。

 高橋尚子というランナーは、レースはもちろん、練習も常に「全力」で臨み、毎日が真剣勝負だった。たとえレースで優勝しても、余力を残す形で終わったならば、そんな走りをしてしまった自分を許さない。彼女はその姿勢をずっと貫いてきた。それは肉体的にも精神的にも疲労となって蓄積し、ついに限界に達してしまった。“Qちゃんスマイル”に隠され、我々は最後までそれに気づくことはなかった。

 「プロ高橋の走りができない」という注目すべき発言もあった。納得のできない状態でみんなの前に出ることはできない、たとえ勝ったところでそれはごまかしでしかない。これがその言葉の真意だろう。全力でやっても納得できない、完全燃焼するまで走り続けたが、やっぱり納得できない。高橋はそんな今の自分の状態を理解した。「もう限界だ」と。

 まだ走れるとの声もある。実際、11月16日の東京国際に出場して優勝する可能性も残っていただろう。しかし、高橋のトップアスリートとしてのプライドが、これ以上走ることを許さなかった。

 かつて、王貞治が現役を引退する際、「ホームランを30本しか打てなくなった」ことを理由とした。30本は立派な数字だが、毎年40本、50本と打ち続けてきた「世界の王」にとっては納得できなかった。ファンと同時に自分をもごまかすようなことはしたくなかったのだろう。

 「プロ高橋」はそんな「世界の王」とダブって見えてくる。超一流アスリートゆえの譲れないものが、そこに確かにあった。

 かつて彼女はこう言った。

 「最後は真っ白になって灰になる」

 高橋尚子は本当に引退してしまったのだ。我々の目には、今の彼女が燃え尽きた真っ白な灰に見えないとしても。

関連キーワード
高橋尚子
王貞治
RUN特集

ページトップ