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フォトグラファー今井恭司が撮った激闘の瞬間

posted2018/06/22 10:00

 
フォトグラファー今井恭司が撮った激闘の瞬間<Number Web> photograph by Kyoji Imai

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今井恭司

今井恭司Kyoji Imai

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Kyoji Imai

ジャパンカップキリンワールドサッカー1982(東京 国立競技場)

日本 1-2 ブレーメン

 Jリーグが始まる10年も前の時代、日本サッカー協会も予算がなく、職員も所属企業からの出向で、選手も基本的には無報酬でした。前年に代表監督に就任した森孝慈が協会にかけあい、ようやく選手にわずかな日当が出るようになりました。

 そんな時代ですから、国内でヨーロッパのトップチームと戦えるジャパンカップ(後のキリンカップ)は貴重な経験でした。選手はもちろん試合を運営する事務局も、チーム招聘の契約書のつくり方からスポンサー看板の位置、観客の誘導まですべて、この大会を通して経験を積むことができたわけですから。

 この年は、奥寺康彦がブレーメンの選手として2度目の出場。今では当たり前ですが、ウィングバックの奥寺が攻撃に参加するサッカーは衝撃的でした。攻め上がって空いたスペースを誰がどうカバーリングするのか、映像などなかなか手に入らない時代、文献だけでは伝わりませんから、実際に対戦できるというのは、日本代表にとっても貴重な経験だったと思います。

木村和司にはレンズ越しでもワクワクした。

 木村和司、金田喜稔、戸塚哲也、尾崎加寿夫ら若手が台頭してきたのもこの頃でした。

 尾崎はこの大会の初戦フェイエノールト戦で4ゴールを決め、翌年、奥寺に次ぐ日本人プロ選手第2号として西ドイツのビーレフェルトに移籍しました。

 そして優勝したブレーメン戦で活躍したのが木村で、彼の華麗なドリブル、フリーキックは見る者を魅了しました。3年後のワールドカップメキシコ大会アジア予選の韓国戦で見せた「伝説のフリーキック」のように、綺麗に曲がりながら落ちていくシュートは、明治大学時代から毎日暗くなるまで何本も何本も練習を重ねてきた賜物でしょう。

 彼を見ていると、サッカーが好きでたまらないという思いが伝わってきます。当時、日本代表の攻撃側からカメラをかまえているのは私ひとりくらい。他の日本メディアは、奥寺のいるブレーメンサイドに陣取っていました。でも、私は和司のプレーをレンズ越しに見るたびにワクワクしました。

 半世紀近い私のサッカーカメラマン人生の中で、間違いなくトップ10に入る選手です。

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