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<ノンフィクション> セルジオ越後 「ニッポンを叱り続けた男の人生」 

text by

城島充

城島充Mitsuru Jojima

PROFILE

photograph byNorihiko Okimura

posted2011/01/25 06:00

舌鋒鋭い辛口評論家。多くの日本人は彼のことをそう認識している。
しかし、日本にサッカー文化を植え付けたのはいったい誰だったのか?
もう一度考えてみて欲しい。セルジオ越後65歳。孤高の伝道師のルーツを辿った。

 サッカージャーナリストの草分け的存在として知られる賀川浩は、そのプレーを克明に記憶している。

 1974年の日本サッカーリーグ(JSL)第4節、ヤンマーと藤和不動産の一戦が大阪・長居競技場で行なわれた。当時のJSLには日系ブラジル人選手を招いて戦力補強するチームが増えていたが、藤和の8番をつけたセルジオ越後も地球の裏側からやってきた助っ人プレイヤーの1人だった。

 賀川は来日当初からそのスピードと卓越した技術に注目していたが、この日瞼に焼き付いたのは派手な足技ではなかった。

 逆サイドへ長いパスを正確に蹴り出す。広い視野と精密機械のようなコントロールで試合の流れに変化をつけたかと思うと、ペナルティエリアの外でボールを足下に吸いつけた日系ブラジル人は、一瞬ためをつくってディフェンダーのタイミングをずらし、ゴールポストの隅にきれいなシュートを決めた。

「日本の指導者はとにかく、急げ、急げとしか教えない。緩急の『緩』を教えないんです。だから、あのプレーは鮮烈だった」

 試合後、賀川はセルジオに声をかけた。確認しておきたいことがあったからだ。

スポーツショップにサッカー用品が置いてないことに驚く。

「あの逆サイドへのキックやタイミングをずらしたシュートは、何歳のころから蹴れるようになったの?」

文化の違いに戸惑うことの多かった藤和不動産時代

 セルジオはぎこちない日本語で答えた。

「15、6歳のころかな」

 予想通りの回答だった。賀川は少年指導の重要性を改めて認識したが、その分野でセルジオとつながるのはもう少し後になる。

 このとき、セルジオは来日して3年目だった。ブラジルと日本のサッカー観や文化の違いに悩み続けた彼はこのあと、いったん日本を離れた。

「日本に来て驚いたのは、スポーツショップにサッカー用品が置いてないこと。野球用品がずらりと並んで、バドミントンのセットが隅っこに置いてあるだけだったからね」

 インタビュー場所にスーツ姿で現れたセルジオは、時計の針を38年前に戻して語り始めた。その辛口解説は日本のサッカー界にすっかり定着したが、若いサッカーファンは彼が日系ブラジル人初のプロ選手として脚光を浴びた経歴を知らないかもしれない。

<次ページへ続く>

【次ページ】 「日本人にはサッカーとサンバは無理」という固定観念。

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