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<狂気の左サイドバックが語る代表の20年> 都並敏史 「僕を一回り超える世界基準の男が現れた」 

text by

一志治夫

一志治夫Haruo Isshi

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photograph byTadashi Shirasawa

posted2013/11/15 06:01

<狂気の左サイドバックが語る代表の20年> 都並敏史 「僕を一回り超える世界基準の男が現れた」<Number Web> photograph by Tadashi Shirasawa
ドーハの戦犯――都並敏史は今でも自分のことをそう思っている。
怪我を抱えながら最終予選に帯同した“狂気の男”は、
自身をはるかに超える左サイドバックの後継者をどう捉えているのか。

当時の日本代表の死闘、そして長友佑都らについて都並氏が語った
Number839号の原稿を特別に全文掲載します。

「ドーハから20年か。僕はドーハで燃え尽きちゃって、あれがJリーグと同じ年だったとはとても思えない」

 テーマを聞いた都並敏史は、開口一番こう言った。

 1993年という年は、都並にとって、とてつもなく長く苦しい1年だったのだ。

ケガをする直前までは本当に最高の状態でした。

 '93年4月8日にワールドカップアメリカ大会のアジア地区1次予選がスタートし、5月15日にJリーグが開幕。サッカー新世紀がやってきたこの年、都並は、開幕3戦目のゲームで左足首を傷め、さらに2カ月後には練習中に疲労骨折を負っていた。3カ月後、10月のカタール最終予選に目標設定した都並は、Jリーグの残りすべてのゲームを捨て、治療に専念することを決める。

 自分の現役としてのピークは、あそこだったし、ケガをする直前までは本当に最高の状態でした。

 日本のサッカーで言えば、レベルの高い選手もいれば、プロの域に達していない選手もいる中でJリーグが開幕し、みんなが沸々としたエネルギーを持ちながら、爆発していこうとしていた。日本代表もダイナスティカップ(=優勝、'92年8月)あたりから右肩上がりで成績を残し始めて、これから大きく爆発していくという時期でした。

僕はいまでも、自分がドーハの戦犯だと思っています。

 都並は、なんとかピッチに立とうとあがき苦しんだ。痛み止めの注射を打っては走り、夜中に苦痛でもんどり打つ狂気の日々。しかし、結局、かつての左足は戻ってこなかった。

 それでも、ハンス・オフト監督は、カタールの最終予選に都並を帯同する。

 そのことに関しては、前から僕の意見は変わっていないです。あんなケガ人が日本代表内にいることで、チームの運が逃げたと思っているから。サッカーってそんなに甘くないんです。チームのために働ける選手がいることは大切ですけど、それは100点満点の中の80点以上のプレーができる選手が行くべきで、50点しかできない選手を連れて行ってもダメだと思う。いいキャラクターでチームのためになっても、仕事ができないんじゃ、話にならない。

 でも、あの時代、それをダメだという人はいなかったわけじゃないですか。僕の中にも迷いはあったけど、日本のためになるんだったら行くべきだというところで最後は決断したわけです。でも、僕はいまでも、自分がドーハの戦犯だと思っていますから。

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