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初代ドリームチームの遺したもの。 

text by

小尾慶一

小尾慶一Keiichi Obi

PROFILE

photograph byNBAE/gettyimages/AFLO

posted2004/08/03 00:00

 1992年はドリームチームが世界にインパクトを与えた年だった。マイケル・ジョーダン、マジック・ジョンソン、ラリー・バードといったスーパースターをそろえたこのチームは、平均得失点差44点でバルセロナ五輪の金メダルを獲得。試合後は対戦チームの選手に記念撮影をせがまれ、会場の外では詰めかけたファンの熱狂的な歓声を浴びた。ヘッドコーチのチャック・デイリーに「まるでエルヴィス(・プレスリー)とビートルズがユニットを組んだかのようだ」と言わしめるほどの騒ぎだった。

この大会がきっかけとなり、バスケットボール人気は世界的な高まりをみせる。競技レベルも急激に上昇し、世界各地でNBAレベルの選手が育ち始めた。NBA所属のインターナショナルプレイヤーは、93年の春には5本の指で数えられる程度だったが、98年にはその数が29人に増え、2003年の同時期には65人に達した。

一方、世界のレベルが高まるのと反比例してドリームチームの後継者たちの立場は危うくなる。アメリカはバルセロナ以降も国際試合にNBA選手を送り込んだが、回を重ねるにつれてインパクトは薄れていった。スター選手はケガや疲労を理由に代表入りを拒むようになり、どうにか選手が集まっても準備期間が短いためにチームワークを築くことができない。2002年のインディアナ世界選手権でアメリカチームは3敗を喫したが、それは十分に予想できる結果だった。

雪辱を期す今年のアテネ五輪。その選手選考も困難を極めた。辞退者があまりに多かったため、出場する12人が正式決定したのは7月上旬だった。経験の浅い若手選手(平均年齢23・6歳)で構成され、身長213センチ以上の選手はティム・ダンカンただひとり。練習期間も17日程度で、1ヶ月以上かけて調整する他の強豪国に比べると心もとない。

苦戦は必至だが、それはむしろ喜ばしいことなのかもしれない。そもそも、我々ファンが望むのはぎりぎりの真剣勝負とそこから生まれる最高のプレーではなかっただろうか。

各国の代表チームはアメリカ戦になると目の色を変える。「勝ちたい」という想いが強くなる。それは初代ドリームチームに向けられた憧れの視線の裏返しであり、そうした気持ちで接戦を繰り広げることがバスケットボール界全体のレベルを押し上げていくのだ。

バルセロナの衝撃と感動は、形を変えて今も生き続けているのである。

■ビッグマン不足を補うには

26 日、アメリカ代表チームがフロリダ州ジャクソンビルでトレーニングを開始した。ヘッドコーチを務めるラリー・ブラウンの元、1日2度(朝と夜)の練習を行っていたが、練習2日目にエメカ・オカフォーが足首を捻挫。レントゲン検査を受けるために練習場から退いた。加えて、大黒柱のティム・ダンカンも胃の調子をおかしくして練習を欠席。幸いふたりとも症状は軽いということだが、これが本番での出来事であればセンター不在で闘わなければならないところだった。インサイドに不安を抱えるアメリカチームは、ディフェンスから速い展開に持ち込めるかどうかが勝負の分かれ目になりそうだ。

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