Sports Graphic Number MoreBACK NUMBER

オビエドに生まれて。 

text by

渕貴之

渕貴之Takayuki Fuchi

PROFILE

posted2005/09/29 00:00

 スペイン北部に位置するアストゥリアス州の州都オビエドは、華やかさとは無縁の静かな小都市だ。いまでこそ特に見るべきものもない退屈な街だが、もともとはイベリア半島にイスラム帝国が築かれた8世紀に、レコンキスタ(イスラム勢力から国土を奪還する戦い)の拠点となったアストゥリアス王国の最初の都だった誇り高い土地でもある。往来を行き交う人々の服装には、みず色と黄色のアンサンブルが目につく。その色はまさしくアストゥリアス王国の紋章の色だ。

 フェルナンド・アロンソ・ディアスはこの街で生まれ育った。

 大半のスペイン人が熱狂するのに違わず、ここオビエドでも永くサッカーが人々の関心の対象であった。しかしホームチームのレアル・オビエドは現在2部リーグ、しかもBに低迷しており、熱狂の対象にはなりにくい。アストゥリアス人の誇りが行き場を失ってしまいそう……そんなとき新たに現れたヒーローがアロンソだった。

 アストゥリアスの人々は彼のことを親しみを込めてアストゥリアス語で「ワッヘ」と呼ぶ。最近、オビエド出身でスペイン国内で有名なポップ歌手メレンディがアロンソのために「エル・ナノ」という曲を作ったが、「ワッヘ」も「ナノ」も意味は同じく「小僧」だ。

 モンツァでアロンソが予選3位を記録した土曜日、シエスタの時間にもかかわらず営業している街角のバルでは、ほぼ100%の確率でF1中継が放映されていた。とはいえ、まだ予選の日だからか、どの店でも騒ぎになるほどの盛り上がりはなく、アロンソと目下のライバル、ライコネンのアタックのときだけ多くの客が画面を注視していた。

 滅多に訪れることのないであろう日本人を見つけて、店主が熱い口調でまくし立てる。

 「サトー、ズーンッ(手でぶつかる仕草)。ワッヘ、ウノ!(?1の仕草)」

 ありったけのF1の知識を動員して、日本人に歓迎の意を示してくれたのだろう。いかにも俄F1ファンと思えた店主は胸を張って言った。

 「アストゥリアスは昔からラリーなどモータースポーツが盛んな地域だ。いままでのF1はフェラーリとシューマッハーだけが勝つから面白くなくて、誰も目を向けようとしなかった。だけど、今年はアロンソを抜きにしても面白いシーズンだろう」

 スペイン全体でのアロンソ人気を日本に置き換えて考えるなら、たとえば佐藤琢磨がF1で勝利する日を想像すればいい。ヒーローでニュースになるには違いないけど、サッカー日本代表や阪神タイガースのような社会現象にまではなり得ない。そんなところだろう。

 オビエドはさすがに地元だけあって人々の話題がアロンソに集中している感触があった。バルの店主だけでなく、ホテルのフロントもタクシーの運転手も、みな口を開けば「ワッヘ最高!」。ほかに情熱を傾けるものが少ない街だから当然なのかもしれないが、ともかくオビエドはアロンソに沸いていた。

 当のアロンソはこの街の慎ましやかな地区で生まれ育った。父親は爆発物を扱うエンジニアで経済的にはいわゆる中流。住まいはエレベーターのないアパートメントだった。ただ普通でなかったのは、父親がカート好きだったことだ。父親は仲間とともに職場の近くにプライベートなコースを造り、さらにフェルナンドの姉のためにマシンを造った。しかし姉はレースで事故って以来カートを嫌いになってしまい、浮いたマシンがフェルナンドに回ってきた。彼がわずか2歳の頃の出来事だった。

 「フェルナンドは3歳になる前から父親と一緒に公式レースに出場していたよ。当時はこのあたりにまだカートサーキットがなかったから、公道を走っていたけどね。いまでも行われているけど、当時の北スペインでは町や村ごとに公道を封鎖して行われるカートレースが盛んだったんだ。10歳くらいまではそうやって村々を転戦していたよ」

 そう語るのはアロンソ、いやフェルナンドのレース人生のすべてを知るホセ・ルイス・エチェバリア。オビエドの隣、シエロ村でシルクイト(サーキット)・アストゥリアスを経営する人物だ。

 「こっちではまだ喋れない年齢でもカートに乗る子がいるんだ。フェルナンドが特別に早く乗り始めたわけじゃない。ただ、才能は特別だったな。8歳からはマドリッドに行って大きなレースを走っていたからね。もっとも当時は大都会のマドリッドに行けるだけでフェルナンドを含めてみんな嬉しかったんだけど。そうこうしているうちに地元にもサーキットを造ろうということになって、私と父親とでこのサーキットを造ったんだ。父親はもちろんフェルナンドも工事を手伝った。完成が― '92年、フェルナンドが11歳の年だね。だから彼が10歳の頃はサーキット造りに忙しくてあまりレースに出なかったんだ。だけど、サーキットが完成した頃には、フェルナンドにはちゃんとスポンサーも付いて、イタリアのレースを走るようになった。それで日曜日ごとにレースがあって、私や父親などのグループでフェルナンドをイタリアまで連れて行ってたんだ。ちなみに当時カートで有名だったのがフィジケラやトゥルーリだよ。一番速かったのがビタントニオ・リウッツィ。最近ようやくF1(レッドブル)にたどり着いたけどね。フェルナンドはどの時代も周りと比べて3、4歳は若かったな」

 シルクイト・アストゥリアスはかくしてフェルナンド少年の練習コースとなった。しかし、スポンサーが付いたとはいえ普通の家庭にカートレースは経済的な負担が大きい。

 「父親は仕事が終わる3時頃からこのサーキットへ来て、10時までアルバイトをしていたんだ。父親だけじゃない。フェルナンド自身もほかの子供のコーチをしたり、メカニック的なことをしたり、それに洗車までしてた。そうやってコツコツ収入を得ていたんだ。そういう努力もあって13歳でスペインを制し、 15歳では世界チャンピオンを獲得したんだ」

 その活躍ぶりはカートが盛んなイタリアやベルギーでは有名だったが、4輪のレースがそれほど盛んでないスペインではまったく知られていなかった。いま、メディアがアロンソの出自を知りたがるわけにはそういった背景もある。

 その後アロンソは18歳で本格的フォーミュラ・レース、オープン・フォーチュナ・ニッサンのチャンピオンを獲得し、さらに19歳では国際F3000でシリーズ4位。同じ年にミナルディを駆ってF1にデビューし、最年少完走を記録している。

 「今年チャンピオンを取れそうなのは、もちろん嬉しい出来事だよ。フェルナンドが小さい頃から一緒にやってきたことを改めて誇りに思う。でも、いまに至るまでずっと一緒でいられたのは彼の性格によるところが大きいね。さっき話したレース資金のことだってそうだけど、まず天性の努力家だという点。雨が降って普通なら走るのを見合わせるようなコンディションでも、彼だけは喜んで走っていた。負けず嫌いは子供の頃からで、シャイであまり目立つようなことはしたがらないけど、テーブルゲームなんかでも負けると無理矢理壊してしまうようなところもあった。パーフェクト主義とも言えるかな。でもフェルナンドを見ていて個人的に思うのは、F1を走るのもあと5、6年じゃないかということ。彼はスターじゃなく普通の暮らしをしたいと思うタイプの男だからね」

 日曜日、決勝レースの日。安息日だけあって街に人気は少ないが、スタート時刻が近づくと公立のコンサートホールにアロンソサポーターがそぞろ集まってくる。この日は1000人足らずだったが、多いときは1500人以上が集う。街のそこかしこで行われる大スクリーンを使った鑑賞会のなかでも、一番規模が大きい。多くの人々が思い思いのアロンソグッズを身につけているが、ひときわ目を惹かれるのはみず色の地に黄色の十字が配されたアストゥリアスの旗だ。奇しくもアロンソの駆るルノーの車体色とまったく同じ組み合わせ。偶然の一致とはいえいやが上にも気分は盛り上がるであろう。ホール周辺はみず色と黄色の洪水だ。

 レースが始まる。人々はアロンソが映し出されるたびに嬌声をあげ、アストゥリアスの歌を歌い始める。もはやレース展開など目に入らず、ただアロンソだけを見ている人もいる。アロンソ以外で観衆が沸いたのはライコネンがスピンアウトしたシーンだけだった。

 結局この日、アロンソは2位でフィニッシュし、4位に終わったライコネンとの差を3ポイント広げた。みな満足そうに散開していったが、これが優勝だともうひと盛り上がりあるという。街で一番大きなロータリーにサポーターが押し寄せ、噴水に飛び込んだりして大騒ぎし、旗を翻したクルマの列がホーンを鳴らしながらぐるぐる回ったりする。残念ながら今回はその盛り上がりには至らなかったが、オビエドの人々は確かに熱狂し、「ワッヘ」を愛していた。

 アロンソはいまでも暇さえあればすぐオビエドに帰ってくる。ヨーロッパでのレース終了後、2時間ほどで自宅に着いたこともある。エレベーターのないアパートメントは2年前に引き払い、オビエド郊外の静かな地域に両親と住む家を建てた。

 ホセ・ルイスは言っていた。

 「いつ帰ってきても彼は変わらない。いつもどおりに話ができるし、カートの子供たちにも優しい。私が彼を帰ってきた宝物だと思うように、フェルナンドにとってもオビエドは宝物のような場所なんだと思う。彼の人生はここにあるんだよ」

海外サッカーの前後の記事

ページトップ