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阪神の消えた天才“じつは身体に異変あった”プロ1年目…5000球投げた「左ヒジがチクチク…違和感あった」田村勤が明かす激動半生
posted2025/10/31 11:01
阪神時代の田村勤。1990年代初頭、抑えの切り札としてチームを支えた
text by

岡野誠Makoto Okano
photograph by
Sankei Shimbun
1991年、プロ1年目の田村勤は、弱体投手陣の阪神ゆえに、右打者に投げる機会も多く巡ってきた。覚悟を決めて内角にストレートを放ると、バットがへし折れ、力のないゴロが転がる。そんな場面が何回も続いた時、田村はハッとした。
「『あれ? 去年までならホームランだよ』と。当時、社会人野球は金属バットでしたから、内角は詰まった打球でもスタンドまで運ばれていた。なのに、プロだとピッチャーゴロですよ。天国と地獄くらい違った。精神的にかなり優位に立てました。『俺のインコース、通用しちゃうかも』って」
プロ1年目から活躍…当時の“異常な球数”
当時、社会人出身の投手はプロで大活躍していた。前年の新人では、野茂英雄(近鉄)が最多勝や奪三振王などタイトルを独占。与田剛(中日)は35セーブポイントで最優秀救援投手となり、佐々岡真司(広島)は13勝17セーブ、潮崎哲也(西武)はリリーフで防御率1.84をマークした。金属バットで鍛えられた田村にも、右打者に通用する球威が自然と備わっていた。
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出番が多い分、他チームでは考えられない指示もあった。大石清コーチから「今日、先発の状態が良くないから試合前から作っとけ」と言われる日もあった。
「それなら、自分を最初から投げさせてくれたらいいのにって思いましたよ(笑)。プライドを傷つけるから、先発投手とブルペンで一緒に投げるわけにはいかない。悟られないように、先発が投球練習を始める前に肩を作りました」
開幕から2カ月で、5回途中までのリリーフは6度あった。7回以降の登板も8度あった。救援のタイミングが予想できないため準備に伴う球数が増え、腕には相当な負担が掛かっていた。

