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「メジャーなんてありえない」が日本の常識でも…野茂英雄26歳は「メジャー挑戦の夢」を語り続けた 近鉄番記者が聞いた「野茂のホンネ」

posted2024/05/02 11:04

 
「メジャーなんてありえない」が日本の常識でも…野茂英雄26歳は「メジャー挑戦の夢」を語り続けた 近鉄番記者が聞いた「野茂のホンネ」<Number Web> photograph by Masato Daito

近鉄のエースとして1995年の活躍も期待されていた野茂。しかし、周囲にはメジャーへの思いを隠さないようになっていた

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喜瀬雅則

喜瀬雅則Masanori Kise

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Masato Daito

 1995年5月2日、野茂英雄がメジャー初登板を果たしてから29年が経つ。ポスティングシステムもない当時、プロ6年目に突入するトルネードが1995年も日本でプレーすることは当然と目されていた。一体、近鉄最終年に何が起きていたのか。近鉄時代の番記者が「暗雲を告げた1994年の秋」を振り返る――。【連載第3回/初回から読む】

“再衝突”は不可避に見えた鈴木近鉄の「95年体制」

 1994年の近鉄は、一時は借金15、首位から16ゲームも引き離されながら、夏場には首位にも立つという驚異的な巻き返しを見せた。

 最終的に、2年ぶりのAクラス奪回となる「2位」に滑り込むと、鈴木啓示の監督就任3年目となる1995年の続投も正式に決まった。

 「石の上にも三年や」

 その鈴木がV奪回へ向け、投手コーチとして招聘したのは米田哲也だった。

 阪急のエースだった米田は「ガソリンタンク」の異名を持ち、現役実働22年間で歴代2位となる949試合登板、鈴木を上回る通算350勝を挙げた鉄腕だった。

「米田さんはピッチャーの大先輩で、言わなくても、感覚は同じや。何でも『込み』を入れようということや。投げ込み、走り込み。勝つために、長くやるために、最低でもこうやるべき、という心構えもある。勝ってきた人は、こういうことをしてきたから勝ってきたんや。選手のためにはええことや」

 鈴木はまさしく、自らのイズムを貫き通すべく、10歳年上の大先輩を自らの右腕として招聘したのだ。もう、この人事を見ただけで、野茂との“再衝突”は目に見えている。

野茂が出席した上智大のシンポジウム

 野茂も鈴木も、表面上は決して、互いを批判するようなことは言わない。しかし、2人のポリシーは、未来永劫、絶対に交錯しないだろう。それは、当時プロ野球記者1年目だった私にだって分かる。

 指揮官とエースは、この先、一体どう折り合いをつけていくのだろうか。

 野茂の本音を、聞き出すことはできないだろうか。そう思いあぐねていた頃、野茂が“講演会”に出席するという情報が飛び込んできた。

【次ページ】 どんなことがあっても、フォームは変えない

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