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「はっきり言えば、クビでした」青学大・原晋監督が実業団ランナーを引退した日…「会社員としても戦力外に近かった」元選手サラリーマンの逆転物語―2024上半期読まれた記事
posted2024/05/04 17:00
text by
生島淳Jun Ikushima
photograph by
Nanae Suzuki
2023ー24年の期間内(対象:2023年12月~2024年4月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。箱根駅伝部門の第2位は、こちら!(初公開日 2024年1月14日/肩書などはすべて当時)。
中京大卒の原と青学大を結びつけた縁
中京大学出身の原にとって、箱根駅伝は縁遠い存在だった。大学卒業後、中国電力のサラリーマンとして働き、陸上からは足を洗っていた原が、青山学院大陸上競技部の監督になったのは、不思議な「縁」としかいいようがない。
青山学院大は都会的なイメージが強い。スポーツ界では井口資仁(現・千葉ロッテマリーンズ)など一時期はプロ野球選手を輩出したが、陸上界では無名の存在だった。箱根駅伝には戦前の1943(昭和18)年に出場しているが、戦後になってからは1976年を最後に、予選会を突破できなかった。
青学大は駅伝に「経営資源」を集中投下
大学側が本格的な陸上の強化に乗り出したのは、2003年のことである。21世紀に入り、大学によっては“生き残り戦略”の一環としてスポーツの強化を明確に打ち出していた。箱根駅伝は平均視聴率が25パーセントを超える優良コンテンツであり、しかも開催時期が大学入試の出願前とあって、PR効果も高い。
青山学院大は駅伝だけでなく、野球、ラグビーにも援助を行っていたが、力を分散していては効果も散漫になるとして、駅伝に「経営資源」を集中的に投下することを決めた。
長距離の強化に当たっては、指導者を探すことが重要だ。そこで白羽の矢が立ったのが原だった。
原晋の反骨心
原は広島の名門校、世羅高校から中京大に進み、卒業後は郷里の中国電力に就職した。青山学院大とは縁もゆかりもない。