「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
「ベテランが率先してサボっていた」広岡達朗は“弱小ヤクルト”の何を変えたのか? 杉浦享が伝えたい感謝「本当に厳しい人だったけど…」
posted2024/03/30 11:03
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
Yuki Suenaga
公私にわたって大充実の1978年
球団創設29年目にして、ついにセ・リーグを制した。日本シリーズでは、当時黄金時代を築いていた阪急ブレーブスと激突することとなった。下馬評では「阪急有利」の声が大勢を占める中、広岡達朗監督率いるヤクルトスワローズナインは善戦した。当時プロ8年目、26歳だった杉浦亨(現・享)が同シリーズを振り返る。
「シリーズ前は“勝てるわけねぇだろう”って思っていたけど……。負けはしたけど、初戦で相手エースの山田久志さんから5点を奪って、“ひょっとしたら?”という思いになりました。気持ちが決定的に変わるきっかけとなったのは、やっぱり、ヒルトンのホームランじゃなかったかな?」
杉浦が口にした「ヒルトンのホームラン」とは、敵地・西宮球場で行われたシリーズ第4戦、4対5で迎えた9回表二死からデーブ・ヒルトンが放った起死回生の逆転ツーランホームランのことだった。
「あそこで流れが変わったし、僕たち選手の中でも、“勝てるぞ”という思いになった気がします。あんな神がかった試合が起こるということは、やっぱりこちらに運があるということですから。その象徴が、第7戦の大杉(勝男)さんのポール際のホームランですよ」
これまで、本連載ですべての当事者が証言しているように、大杉の放ったレフトポール際の大飛球は「ホームランか、ファウルか」で1時間19分もの中断を余儀なくされ、物議を醸した。結果的にホームランとなったが、多くの人が「あれはファウルだったと思う」と話していた。杉浦の見解を聞いた。
「自分の打席に備えてベンチから見ていましたけど、僕はファウルに見えました。レフト線審の富澤(宏哉)さんは、第4戦ではライト線審だったから、それで混乱してしまってつい、“ホームランだ”って判定してしまったんじゃないのかな? いずれにしても、運はヤクルトに味方していたと思いましたね」