「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
「もう辞めてやる!」激怒する杉浦享に広岡達朗が「オレも巨人で同じ経験を…」“ヤクルト恐怖の6番”が明かす恩義「広岡さんが助けてくれた」
posted2024/03/30 11:00
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
Yuki Suenaga
結婚、長男誕生、レギュラー奪取、そして日本一
1978年9月23日――。マジック8、優勝に向けてひた走るヤクルトスワローズは、広島市民球場で広島東洋カープとの一戦に臨んでいた。その試合中、杉浦亨(現・享)の下に待望の知らせが届いた。
「ブーちゃん、ついに生まれたぞ! 男の子だぞ!」
プロ8年目、26歳にしてようやくレギュラーポジションをつかんだ。前年秋に広岡達朗監督の発案で、内野手から外野手にコンバートされると、「三番・若松勉、四番・大杉勝男、五番・マニエル」に続く、「恐怖の六番」として、他球団を震え上がらせた。この年の杉浦は手がつけられなかった。
「78年は夢みたいな1年でした。嫁さんをもらって、レギュラーになって、チームは日本一になって、その上、子どもまで授かって……。こういうのを、《棚からぼたもち》って言うのかな、違うか(笑)。すべての幸運が自分の下に降り注いできた、そんな1年でした」
球団創設29年目にして初めてセ・リーグを制し、日本シリーズでは黄金時代を迎えていた阪急ブレーブスを4勝3敗で撃破した。その原動力となったのはリーグ屈指の超強力打線だった。「若松、大杉、マニエル」と並ぶ強力クリーンアップだけではない。シーズン終盤に数多くのミラクル打を放った杉浦の躍進がチームに勢いをもたらしたのだ。
「プロ3年目か、4年目だったかな? “もう野球なんか辞めてしまおう”、そう考えていたのに、本当に辞めなくてよかった。“とにかくバットを振っていれば、いつかは報われる”と、あのとき僕を助けてくれた広岡さんのおかげです」