「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
“守備が上手すぎる監督”広岡達朗のお手本は「とにかく華麗でした」…ヤクルト時代の愛弟子・水谷新太郎が明かす「広岡さんの本当の指導力」
posted2024/02/21 17:01
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
Sankei Shimbun
広岡好みの愚直で真面目な若者
1976年途中の就任から、79年シーズン途中の退任まで、広岡達朗がヤクルトスワローズの監督を務めたおよそ3年間において、指揮官から最も期待され、最も飛躍したのが71年のドラフト9位でプロ入りした水谷新太郎だ。
「高校時代にバッティングマシンなんか見たことがないから、プロに入って最初のキャンプで初めて打ってみてもまったく前に飛ばない。守備は高校生レベル。ただ足が速いのだけが取り柄の選手でした」
プロ2年目となる73年、転機が訪れる。当時の中西太コーチから、「足を生かすために左打ちの練習をしろ」と命じられたのだ。
「いきなり、中西さんから“左で打ってみろ”と言われて、何が何だかわからないまま左打ちの練習を始めました。そこに、自分の意思なんか何もないです(笑)」
しかし、三原脩監督、中西太はチームを去り、74年に荒川博が監督に就任する。この年の最終戦で、水谷はようやく一軍初出場を果たして初ヒットを記録したものの、翌75年には24試合に出場して11打数0安打。この間も左打ちの練習を続けた。打撃力向上の兆しはまったく見えなかった。
この頃、水谷は2打席だけ右打席で打っている。彼の前に立ちはだかったのは74年に最多勝を獲得した中日ドラゴンズの左の大黒柱・松本幸行だ。結果はレフトフライとショートゴロ。手も足も出なかった。
「実は、本心では右で打つことに未練があったんです。でも、生まれて初めて左で打とうとしているのに、右打ちに未練を持っているようじゃダメだ。そんな中途半端な思いじゃダメだ、と。それで覚悟を決めて、左打ちに専念することにしました」
「自分には何もない」「このままじゃダメだ」という思いを胸に、ひたすら練習に取り組んだ。その姿をじっと見守っていたのが、当時守備走塁コーチを務めていた広岡達朗だった。