将棋PRESSBACK NUMBER

「賭け将棋から“ホンマの将棋指し”になった阪田三吉」「関根金次郎ら有力棋士が派閥形勢」…将棋連盟設立“100年前の人間模様”が濃い 

text by

田丸昇

田丸昇Noboru Tamaru

PROFILE

photograph byBUNGEISHUNJU

posted2024/01/30 06:01

「賭け将棋から“ホンマの将棋指し”になった阪田三吉」「関根金次郎ら有力棋士が派閥形勢」…将棋連盟設立“100年前の人間模様”が濃い<Number Web> photograph by BUNGEISHUNJU

昭和初期に撮られた関根金次郎(中央)らの1枚。日本将棋連盟が発足した100年前とはどんな時代だったのだろうか

 主な派閥は、関根名人の「東京将棋倶楽部」、土居八段の「将棋同盟社」、大崎熊雄七段の「東京将棋研究会」。その三派で鼎立していた。各派は、萬朝報、国民新聞、時事新報などの新聞社と個別に契約し、所属棋士の棋譜掲載や解説をそれぞれ牛耳っていた。棋士の昇段、愛好者への免状発行も仕切っていた。そうした利権があるので、各派を統合するのは難しかった。

 各派の棋士たちは他流試合をしないのが原則だった。外部の有力者が、それでは将棋界の発展と技術の向上がないと指摘すると、新たな動きが起きた。大崎七段が各派の首領を説き伏せ、三派合同の棋戦を立ち上げたのだ。

三派が合流して1924年に「東京将棋連盟」が

 大正12年3月に報知新聞が東西対抗戦を企画した。関根派の棋士を東方、土居・大崎連合の棋士を西方に分け、初めての合同勝ち抜き戦(参加棋士は五段以上の16人)が行われた。西方の一番手の大崎七段は、18歳の新鋭棋士の木村五段を破るなど、東方に7連勝して西方に勝利をもたらした。

 大崎熊雄は高知県の出身。井上義雄八段の門下。日露戦争に出征して重傷を負った。帰国して将棋を指すと、戦争体験で精神力が強くなり、驚くほど上達した。豪快な攻めの棋風で頭角を現し、自ら「豪傑ダンビラ流」と称した。少年時代に郷里の英雄の坂本龍馬を崇拝したことから、将棋界では政治力を発揮した。

 大正13年(1924)9月8日。関根派、土居派、大崎派の三派が合流し、「東京将棋連盟」が結成された。各派閥の利害があり、それに至る経過は平坦ではなかったが、大崎七段が持ち前の政治力で調整役を果たした。また、次のような事情が後押しした。

関東大震災が起きたことで棋界統一の機運が

 三派合同の報知新聞の棋戦が前年に発足、関東大震災が前年に起きて棋界統一の気運が高まる。棋界の世話人として尽力していた中島富治(元海軍主計官)、石山賢吉(ダイヤモンド社創業者)らの提言、読売新聞が大棋戦を創設する意向……。

 なお、昭和2年(1927)に関西の木見金治郎八段が率いる「棋正会」が東京将棋連盟に合流したことで、現在の「日本将棋連盟」に改称された。

 こうして前身の東京将棋連盟が創立され、名誉会長に関根名人、会長に土居八段、副会長に大崎七段らが就いた。

 ところが大正14年、3人の棋士の八段昇段に異議を唱えた阪田八段が「関西名人」を自称したことで紛糾した。その問題については、次回の記事(2月11日に配信予定)で詳述する。

関連記事

BACK 1 2 3
坂田三吉
関根金次郎
小野五平
伊藤宗印

ゲームの前後の記事

ページトップ