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「迷わず行けよ、ユッケばわかるさ」アントニオ猪木が行きつけの焼肉屋で見せた“かわいい姿”とは? 病床で目を輝かせた“豚足秘話”も
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2023/02/20 11:01
アントニオ猪木が愛した麻布十番『一番館』の豚足。店主の江原静江さんは「猪木さんは豚足を焼いていました」と回想する
駄洒落が大好きな猪木は意表を突いてくる。それはリング上の戦い方と通じるものがあった。
「上ミノを焼いている時も『このミノ、誰のかわかるか?』って。そうしたら、『ミー(Me)の』って得意気にニーと笑って。あの顔が忘れられないです」
江原さんは懐かしそうに振り返る。
「気遣いの人です。大人数で来られた時でした。誰かが、『今日は会長の誕生日なんですよ』と言うんです。じゃあ、と私がサーロインのいい肉を出したら、猪木さんが急に機嫌悪くなってしまって。『お前らオレの誕生日を利用するな。店の人に迷惑かけるな』って。みなさんシーンとしていました。ちゃんと食べてくれましたけど」
ペールワン一族の末裔ハルーンとも来店
「そういえば、パキスタンの若い学生さんを連れてきたこともあります」
猪木は1976年6月のモハメド・アリ戦の後、12月にパキスタンのカラチで英雄アクラム・ペールワンと戦い、ギブアップしない相手の腕を折った。さらに1979年には、アクラムの甥のズベール・ジャラ(ジャラ・ペールワン)とも戦った。
猪木が連れてきたアビッド・ハルーンは、古く遡ればインドの伝説グレート・ガマ、パキスタンではボロ族(ペールワン一族)の末裔で、ジャラの甥にあたる。「イノキ・ペールワン」の猪木は歴代の大統領と親しく、政権が変わってもパキスタンに国賓待遇で招かれ続けていた。2012年に猪木がボロ一族のお墓参りをした時だった。パキスタンのレスリングを復興させたい一族は、13歳のハルーンを猪木に託そうとした。15歳になったハルーンを猪木は日本に呼び寄せた。
ハルーンの日体大荏原高の入学式に、猪木は父親代わりとして出席した。荏原高には柔道部しかなかったため、ハルーンはレスリング部のある日体大柏校に移り、日体大へと進んだ。ハルーンは日本でレスリング・デビューを果たすと2017年10月、両国国技館で猪木からプロレスファンに紹介されている。ハルーンはレスリングの97キロ級で東京五輪のパキスタン代表を目指したが、それはかなわなかった。
ハルーンにはジャラの急死で途絶えたパキスタンでのレスリング人気復活の夢がある。1年前にはプロレスリング・ノアへの入団を発表し、パリ五輪を目指し、その後はプロレスラーになるというプランだ。ハルーンは今春、日体大を卒業するが、練習環境のいい同大学でトレーニングを続けていくという。
ハルーンのその姿は、昨年、猪木が亡くなった後、油井秀樹キャスターのNHK国際報道番組で「アントニオ猪木“外交秘話”少年に与えた夢」と題して、時間を割いて取り上げられた。