酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
〈村田兆治さんを悼む〉三冠王・落合博満らが援護し続け… まるで野球漫画な「1985年のサンデー兆治」復活劇を称えたい
posted2022/11/14 17:01
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph by
Sports Graphic Number
筆者が覚えている限り、昭和の時代、最も痛そうなミットの音を響かせていた捕手は阪急の中沢伸二とロッテの袴田英利だった。
投げていたのはもちろん山口高志と村田兆治。山口の球は中沢のミットに「ターン!」と硬い音を響かせたが、村田の球は「バーン」ともっと重そうな音だったように思う。村田兆治のあの独特のフォームを当時の子供は真似しようとしたが、うまくいった子供は少なかった。
「選手生命も終わりかもしれない」
豪腕・村田兆治が投げられなくなったのは、1982年5月17日のことだ。川崎球場での近鉄戦に先発した村田は1回で降板。その前から肘に痛みを発してローテを飛ばし、10日ぶりの登板だったが、1回1死一塁で近鉄の3番ハリスに初球を投げ込んだ時に肘に激痛が走った。
「痛くてフォロースルーができず、あとは(肘を使わずに)肩だけで投げたが、これ以上無理」と絞り出すように言った。
「1本の糸が切れた感じ。選手生命も終わりかもしれない」
村田の言葉に報道陣も青ざめた。
以後、村田兆治はマウンドから姿を消した。
原因は不明とされたが、村田は“うつ状態”になり、誰とも合わなくなり、熊野で滝に打たれたりもしたそうだ。翌年になっても肘の痛みは引かず、村田は悶々としていたが、アイク生原氏(ドジャース職員)の紹介で渡米し、フランク・ジョーブ博士の執刀で左手首の腱を右ひじに移植するトミー・ジョン手術を受けた。ロッテの後輩投手・三井雅晴に次ぐ史上2人目である。
「完全にカムバックできるかどうかは、君のリハビリにかかっている。赤ん坊の成長と同じ。1日1日、ゆっくりやるように」
2年ぶりにマウンドに上がった84年の成績は?
ジョーブ博士の忠告を守ってリハビリに専念した村田は、1984年、2年ぶりに試合で投げた。二軍で3試合0勝1敗6回2被安打5四死球4三振、自責点3の防御率4.50。そして8月12日に一軍に昇格。日曜日だった。
〈8月12日(日)救 西武/1回0安0本0振0球 責0〉
17-1とロッテが圧勝した9回に深沢恵雄の後を受けてマウンドに上がった村田は、9球で3人の打者を退けた。「初球はストレート。自分の決め球なので」この年はその後4試合に投げた。
〈8月22日(水)救 近鉄/2回3安0本1振0球 責1〉
〈9月2日(日)救 阪急/1回0安0本0振0球 責0〉
〈9月7日(金)救 南海/0回3安0本0振0球 責3●〉
〈9月25日(火)先 日本ハム/5回7安1本2振0球 責2〉
シーズンも残り2試合となった9月25日には先発のマウンドに上がり、7安打されたものの自責点2でマウンドを降りた。