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「今思えば、俺の誇り」18歳の三浦大輔がプロ初登板、“大洋ホエールズ消滅の日”に誓った想い「俺も遠藤一彦さんのように…」
posted2022/10/07 06:22
text by
石塚隆Takashi Ishizuka
photograph by
SPORTS NIPPON
Number949号(2018年3月29日発売)の『1992年10月7日 ホエールズ最後の日』を特別に無料公開します。※肩書きなど全て当時のまま 全2回の後編/前編は#1へ
ミヤーン、パチョレック、ポンセ…
ファンの心にも、ホエールズがなくなる寂しさと新しいチームになる嬉しさや希望が複雑に混在していたことだろう。
なにしろホエールズ時代は弱かった。1960年に日本一になって以来、30年以上、優勝から見放されていた。特に横浜大洋時代は、15年間でAクラスはわずか3回。ホエールズに愛着はあるが、球団名が変われば負の歴史は一掃され、新しい時代が創造できるかもしれない。名称が変わっただけでチーム力がアップするわけはないのだが、何かが変わるきっかけになるかもしれない。
ホエールズは、個性的な集団だった。横浜大洋時代だけを見ても遠藤一彦や齊藤明雄(当時の登録名は斉藤明夫)のように沢村賞投手もいれば最優秀救援投手もいた。さらに首位打者になったミヤーンや長崎啓二、パチョレック、打点と本塁打の二冠に輝いたポンセ、盗塁王の高木豊、中塚政幸、屋鋪要らを輩出しているにも関わらず、チームとしては強くなかった。
“勝つ知恵”がなかったと思うんです
「個人的な意見ですが“勝つ知恵”がなかったと思うんです」と、高木が分析する。
「齊藤さんと遠藤さんはがんばってくれたけど、どうしても投手の層が薄かった。打線がいくら打っても、点を取られてしまえば勝てない。また具体的な戦い方のプランがありませんでした。点を取りながら勝算を見つけていく戦い方で、勝算を持って戦ったことがない。勝算を持たなければ何をしていいかわからない。そうすると結果的に個性がより育ってしまう」
ドラフト上位の投手が大成しなかったのも大きな要因であった。それでもバッテリーは、嫌われるほど口うるさかったと自負する齊藤と、フォローする遠藤によってまとまっていたという。
「でも野手は違っていた。僕がキャプテンだった時期もあったけど、自分のことで精一杯だったからね。そのへんは悔いとしていまだに残っていますね」
高木は自責の念を露わにした。