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「オレよりすごい奴がおった」清原和博が父に伝えた衝撃。「真澄はショックだったみたいです」一方の桑田も…《KKのPL学園秘話》

posted2022/08/06 11:25

 
「オレよりすごい奴がおった」清原和博が父に伝えた衝撃。「真澄はショックだったみたいです」一方の桑田も…《KKのPL学園秘話》<Number Web> photograph by Katsuro Okazawa/AFLO

PL学園時代(高1)の清原和博と桑田真澄

text by

鈴木忠平

鈴木忠平Tadahira Suzuki

PROFILE

photograph by

Katsuro Okazawa/AFLO

 甲子園で史上最多の通算13本塁打を放った清原和博と、同じく最多の通算20勝をあげた桑田真澄。高校野球史上最強のチームといわれたPL学園の投打で活躍したふたりの逸材は入学直前に出会い、お互いに刺激を受けていた――。
   ベストセラー『嫌われた監督』で大宅賞、講談社ノンフィクション賞、ミズノスポーツライター賞の3冠受賞を果たした作家・鈴木忠平氏の待望の新刊『虚空の人 清原和博を巡る旅』より一部抜粋してお届けします。(全3回の1回目/#2#3を読む)

   翌1983年の3月、井元は数人の中学生たちを鹿児島の指宿へ連れていった。その春にPL学園野球部に入ってくる精鋭を集めて合宿させた。その中には清原と桑田もいた。

   まだ入学前の生徒に合宿をさせるのは、いくら全国的な強豪として知られるPL学園といえども初めてのことだった。厳密に言えば認められていないのかもしれなかった。だが、井元は彼らを引き合わせておきたかった。これから始まる特殊な学園生活について教えておくためでもあった。井元があらん限りの人脈をつかって集めた31期生たちはこれから野球部の黄金期を築くはずだった。それだけに彼らの、とりわけ清原と桑田の扱いには細心の注意を払っておきたかった。

 井元がそこまでして才能をかき集めたのには理由があった。御木徳近が病に臥していたのだ。日に日に衰えていく教主を前にして、井元は悲願を成就させなければという思いに駆られていた。創部から28年、井元が創ったPL学園野球部は甲子園で春2回、夏1回の優勝を果たしていたものの、まだ全国の覇を握ったとは言えなかった。その春も甲子園の主役は「やまびこ打線」と呼ばれる徳島の池田高校だった。

 井元は徳近の枕元に1983年度の新入生リストを届けた。清原と桑田を筆頭に中学で名を知られた球児たちがずらりと並んでいた。それを見ると教主は満足そうに頷いた。

   そして1983年が明けてまもない2月2日、息を引き取った。ほとんど身寄りのない自分を引き取り、教団の子として育て、大学まで出してくれた。そんな教主に報いるためには野球で勝つこと、教団の名前を知らしめるような人材を生み出すことしかなかった。

誰よりも存在感を示した14歳の少年

 井元は指宿の球場で少年たちを見つめた。彼らは徳近の遺言とも言える選手たちだった。その中にひときわ小さな選手がいた。4月1日生まれの桑田だった。彼は15歳の少年たちの中でひとりだけまだ14歳だった。だがボールを握ると、他の誰よりも存在感を示した。

【次ページ】 和博のやつ、おれよりすごい奴がおったって…

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