第98回箱根駅伝(2022)BACK NUMBER
「抜け道、近道もある」。〈第1回箱根駅伝〉はどんな大会だったのか。【スタートは2月14日、午後1時】
posted2021/11/25 11:00

前回大会のスタートの様子。第31回大会(1955年)から現在の1月2日スタートとなった
text by

清水岳志Takeshi Shimizu
photograph by
Nanae Suzuki
その差は5分。
1920年、「四大専門学校対抗駅伝競走」として第1回箱根駅伝が開催された。第1回大会の最終10区。品川時点でトップを行く明治大学と2位の東京高等師範学校(現・筑波大学)の差だ。有楽町のフィニッシュまでにこれだけ大きな差があれば誰もが、明大が逃げ切って優勝すると思っただろう。
ところが、ここから高師がひっくり返すのだ。
「茂木(善作、東京高師)さんの走りは中学生の時に銀座通りで見た。どうなったか翌日の新聞で確かめたら師範が勝っていた」
『箱根駅伝70年史』に掲載された座談会で、永田安之輔(東京農業大学、第5~7回大会出場)が第1回大会の記憶をたどって語っている。
箱根駅伝は第1回大会から、ゴール直前の大逆転でその歴史を刻み始めた。
5区、1位のフィニッシュは午後8時30分
展開を振り返る。
1区、報知新聞社(現・よみうりホール)をスタートし、東京高師がリードして始まった。品川から他校を引き離し、川崎に入った頃にはもう後続は見えない。鶴見中継所では2位・明大と3分差がついていた。
しかし、2区は明大・下村広次が快走。東京高師を逆転し、戸塚中継所では逆に2分差をつけて首位に立った。この時点で3位・早稲田大学とは10分、4位・慶應義塾大学とは16分の大差がついていた。復路の最終盤まで、この順位が保たれていく。
山上り5区へたすきリレーをする小田原中継所に明大が着いたのが、午後6時28分。陽はもちろん落ちている。
当時の5区は砂利道で、25kmもある長丁場。明大・沢田英一は小田原中継所から9km先にある宮ノ下の丁字路まで54分55秒かかった。小涌谷ではさらに道悪に。芦ノ湯についたのが午後8時5分。そして午後8時30分36秒、箱根小学校にフィニッシュして打ち上げ花火が夜空に光った。
小田原中継所で12分30秒差の2位だった東京高師・大浦留市は、明大との差を4分縮めてフィニッシュ。3位・早大とは5分、その差を広げた。
大差で4位に沈んでいた慶大・二木謙三は途中、行方が分からなくなってしまうが、なんとか午後8時53分31秒にフィニッシュした。明大から遅れること1時間22分55秒。二木は山岳部の主将だった。山に詳しいことから5区を任されたと想像できる。
明大・沢田は後に報知新聞の記者になっていて、読売新聞1959年12月28日朝刊で第1回大会の思い出話を書いている。そこからは当時の5区の様子がリアルに伝わってくる。