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内村航平「家のそばには、いつも体育館があった」~王者を育てた地を巡る~ 

text by

矢内由美子

矢内由美子Yumiko Yanai

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photograph byAsami Enomoto

posted2021/02/04 11:00

内村航平「家のそばには、いつも体育館があった」~王者を育てた地を巡る~<Number Web> photograph by Asami Enomoto

通学に使っていた京王線千歳烏山駅の線路沿い。上京1年目は電車の乗り換えに苦戦した

「いつでも帰れる」青葉台エリア

 高3で全国優勝した内村は、ジュニアを飛ばしてシニアのナショナルチームに入った。思えば、現在のコーチである佐藤寛朗と出会ったのもこのクラブ。「人生のターニングポイントでした」と内村は言う。

 世田谷が「僕を作ってくれたエリア」なら、大学進学後に住んだ神奈川県横浜市の青葉台エリアは「いつでも帰れるところ」だという。実際、大学時代に行きつけだった美容室には今でも通っている。

 大学時代は団体戦の楽しさを肌身で感じた時でもある。

「僕は、体操ニッポンが1960年代から70年代にかけて世界大会で10連覇していた時代のことを、元体操選手だった父から聞いて育ちました。しかも僕が大学生になったのは、'04年アテネ大会で日本が久々に金メダルを取り、感動の余韻があった時期。僕らも絶対にあのメダルを取らなければいけないと思っていました」

 自分自身が出たインカレで団体戦の楽しさを知ったのも大きかった。

「団体戦をやると他の選手から刺激を受けて自分自身がすごく乗っていける。その実感を得たことで、体操はやはり団体戦が第一なのだと確信しました」

新社会人生活の始まりは「3・11」

 一方で大学時代は、それまで無名だった内村がすい星のごとく躍り出て、体操ニッポンのエースになっていった時期でもある。大学2年生でシニアの日本代表になり、3年生で世界の頂点に立った当時の内村は、「世界一の練習をした者が世界一になる」をモットーとしていた。24時間、体操一色の生活。「5階以下ならエレベーターに乗らない」と決め、階段で足を鍛えた。寮から大学までのきつい坂道も、毎日自転車で駆け上がった。

「練習じゃないところでも本気を出しちゃうというか、全部、体操につなげちゃう癖がありました。負けず嫌いで、なんでも本気でやってしまう性格でした」

 '11年3月に大学を卒業して社会人になってからは、体操が「仕事」になった。いち競技者としてさまざまな経験を積み重ねていった時期である。

 最初に遭遇したのは「3・11」だ。大学の卒業式を3月10日に終え、その翌日に青葉台の寮から引っ越し先の埼玉県草加市へ車で荷物を運び終えた直後に、東日本大震災が起きた。あと1時間ずれていたら車ごと首都高に取り残されていたという。その後しばらくは、練習どころか、夜は暗闇を懐中電灯で照らしながらの新社会人生活が始まった。

 1人暮らしが始まったタイミングで震災によって人生と向き合い、学生時代以上に競技に取り組む姿勢を突き詰めていく中で、内村はいつしか体操のことだけを考えながら毎日過ごすようになっていた。ストイックな生活をほんのり照らしてくれたのは、近所に住んでいる人々の声。

「いつも見ていますとか、頑張ってくださいとか、そういう言葉を掛けてもらうと僕も頑張れるという思いになりました。草加はそういう温かさ感じるエリアでしたね」

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