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プロ野球監督に必要な要素とは?
2000年巨人と2004年西武に見る「監督力」。

posted2020/03/09 18:00

 
プロ野球監督に必要な要素とは?2000年巨人と2004年西武に見る「監督力」。<Number Web> photograph by Sports Graphic Number

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芦部聡

芦部聡Satoshi Ashibe

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 昨シーズンのメジャーリーグで快挙があった。プロ選手としてのキャリアを持たないカージナルスのマイク・シルト監督が最優秀監督賞を受賞したのだ。監督代行としてカージナルスを指揮すると91勝を挙げ、チームを4年ぶりの地区優勝に導いた。スカウトやコーチとして長年チームで働き、内情を熟知していたとは言え、大胆な登用である。シルト監督のマネジメント能力を見抜いたGMの慧眼も誉めるべきだが、日本球界では同様の抜擢は起こり得ないかもしれない。

 日本球界の監督に求められるのはマネジメント能力だけではない。4番打者やエース投手に比肩するチームの顔として、連日記者に対応するなど広報宣伝の役割も兼務する。監督にもファンやマスコミの目を引く“看板”が必要で、現役時代に輝かしい実績を残したとか、一目置かれるための何かが必要になってくる。プロ野球チームの監督は、工事現場の監督とはわけが違うのだ。

 先取的な運営を好む新興球団にはメジャー的な基準で監督を選ぶチームもあるだろうが、昭和から平成初期にかけて、プロ野球の監督は特別な存在だった。選ばれし一握りの名選手だけが監督になれる――そういう時代がたしかにあったのだ。それに名選手だった監督だからこそうまれるドラマというものもある。

 昭和を代表するスーパースターといえば、ON──王貞治と長嶋茂雄をおいてほかにいない。巨人には生え抜き選手が監督に就くという、現在に至るまで守られている不文律がある。球界を代表するスター選手であった2人は、敷かれたレールに乗るかのようにして巨人の監督に就任した。

 だが、現役時代と違って、監督としての2人は順風満帆とはいかなかった。1974年に現役を引退した長嶋は、川上哲治から引き継いですぐさま監督に就任。川上体制下のコーチ陣を一掃し、青年監督らしいフレッシュな野球を目指したが、監督1年目は球団史上初の最下位に沈んだ。2年目、3年目は汚名返上となるリーグ優勝を遂げて面目を保つも、日本シリーズは阪急に2年連続で敗れている。その後は優勝から遠ざかり、1980年のシーズン終了前に解任を通告された。

2000年に実現したON対決。

 一方の王は長嶋監督時代から選手兼コーチとして勉強。現役引退後は藤田元司監督体制下で助監督として研鑽を積み、1983年に満を持して監督に“昇格”した。だが、就任してから3年間、優勝から遠ざかり、監督としての資質を問う声も聞かれた。4年目にようやくリーグ優勝を果たしたものの、日本シリーズで西武に敗れたため、王の責任論が紛糾。そして5年目、中日に12ゲーム差をつけられての2位に終わり、詰め腹を切らされるかたちで辞任を余儀なくされたのである。

 屈辱を味わった2人だが、それでドラマは終わらなかった。雌伏の時を経て、監督としてグラウンドに帰ってきたのだ。

 長嶋は1992年に巨人の監督に復帰。就任直後のドラフトで星稜高校のスラッガー、松井秀喜を引き当てている。

 王は1994年に福岡ダイエーホークスの監督に就任したものの、勝てない時代が長くつづいた。不甲斐ない成績に激怒したファンから生卵をぶつけられたこともあった。

 巨人の監督として一敗地に塗れ、そして日の当たる場所に帰ってきた2人が、2000年の日本シリーズでついに対峙したのだ。ON対決の華やかさの裏には、ほろ苦い記憶が横たわっていたのである。

 巨人が2連敗から4連勝で勝利し、6年ぶり19度目の日本一に。ON対決は長嶋に軍配が上がったが、王も負けてはいない。日本代表の監督として2006年の第1回WBCで優勝している。「名選手、必ずしも名監督ならず」という定説をひっくり返してみせた。

【次ページ】 伊東勤と落合博満の因縁。

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