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<力尽きた絶対エース>
水野雄仁(池田 1983)「あと3日あれば、おれたちの優勝だった」 

text by

赤坂英一

赤坂英一Eiichi Akasaka

PROFILE

photograph byKatsuro Okazawa

posted2018/08/26 17:30

<力尽きた絶対エース>水野雄仁(池田 1983)「あと3日あれば、おれたちの優勝だった」<Number Web> photograph by Katsuro Okazawa
前年夏、“やまびこ打線”で甲子園を席巻、春の選抜も圧勝した池田高校は、史上初の夏春夏3連覇に挑み、1年生のKKを擁するPL学園にまさかの敗北を喫した。渦中の池田の主戦、水野は果たしてどんな状況にあったのか。本人と関係者の証言をもとに解き明かす。

 ちょうど35年前の1983年、池田高校の水野雄仁は高校球界最高の投手として甲子園の土を踏んだ。前年の'82年夏に続いて池田が優勝したこの年の春、「4番・投手」で選抜大会の全5試合、45回を投げ抜き、失点2、自責点0。ひとりだけで防御率0.00を記録した先発投手は過去3人、夏の選手権と合わせても5人しかおらず、水野を最後に生まれていない。

 それほどの絶対のエースと3年間バッテリーを組んだのが捕手の井上知己である。初めてブルペンで水野の真っ直ぐを受けたときの衝撃を、井上はこう表現した。

「1球目はスピードガンで123kmに過ぎなかった。先輩の畠山(準)さんに比べると、球速はまだまだでした。ただ、その球が手元でホップするんです。あんなすごい球を投げられるのは水野だけだったな」

 決して素質と強気だけの投手ではない。'82年夏に全国制覇した畠山が去ったあと、エースの座を受け継いだ水野がひとり黙々と走り込んでいた姿を、井上は覚えている。

「きっと、畠山さんに負けたくなかったんでしょう。水野が主戦になったら甲子園で優勝できなかったと言われたくないから」

 足腰を鍛えたおかげでスピードも140km台後半まで上がる。井上がマスク越しに見る打者のバットは、ホップする白球の下で面白いように空を切った。水野が右腕をややサイドに下げて投げるスライダー、1~2球しか使わないフォークを混ぜると、バットの芯で捉えられる高校生はひとりもいなかった。'83年の春までは。

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