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<常勝軍団の知られざる挫折>関西の雄が初めて泣いた夏。 

text by

日比野恭三

日比野恭三Kyozo Hibino

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posted2018/08/08 07:00

<常勝軍団の知られざる挫折>関西の雄が初めて泣いた夏。<Number Web> photograph by KYODO

1991年、初出場初優勝を果たしたチームの中心は、大会3本塁打の4番・萩原誠。決勝では大野倫を擁する沖縄水産を13-8で下した。

 高校野球界の両雄、智弁和歌山と大阪桐蔭。
 今春のセンバツ決勝でも戦った両校だが、強豪と呼ばれるまでに各々長い苦しみがあった。
 甲子園初黒星の記憶を中心にその道のりを辿った。

 高嶋仁が智弁和歌山野球部の監督に就任したのは1980年、創部2年目のことだ。

「大学を出てすぐ奈良の智弁学園でコーチをやって。3年契約やったんです。その3年目に当時の監督が理事長とケンカして、お前が監督せいとなった。それ引き受けたばっかりに、(奈良での10年を含めて)もう48年ですよ。契約した理事長は死んでもうておらへんじゃないですか」

 炎天下のグラウンド脇、屋根はあっても熱気のこもるベンチに座り、高嶋は笑う。


 齢70を超えたいま表情は柔和になったが、和歌山に来た30代半ばのころは鬼だった。

 校内から部員をかき集め、とことん負荷をかけた。池田高校の蔦文也監督に頼んで練習試合を組み、「数えきれんぐらいの」点を取られて、選手たちに意識改革を促した。屈辱を糧に伸びたチームは1年目の夏の大会でシード校相手に1勝を挙げる。まだ校歌もなく、やむを得ず智弁学園の校歌を流した。いまと違い紫を基調としたユニフォームに身を包んだ部員たちは、聞き慣れぬメロディにただ耳を傾ける。部はそんなところからスタートした。

 '85年選抜大会で智弁和歌山として初めて甲子園で試合をしたが、初戦敗退を喫した。


 2年後の'87年が節目の年となる。新設の進学校に生徒は集まり、野球部への入部者も少なくはなかったが、覚悟がなかった。苛烈な指導に部員数が安定せず、見かねた理事長がスポーツコース(当初の名称は国際コース)の設置を提案した。1学年あたり10名の精鋭を募るようになったのだ。

この記事は雑誌『Number』の掲載記事です。
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