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大相撲の「八百長」って何だ!? ~Number創刊年に載ったコラムを再発表!~ 

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設楽敦生

設楽敦生Atsuo Shitara

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posted2011/02/11 08:00

大相撲の「八百長」って何だ!? ~Number創刊年に載ったコラムを再発表!~<Number Web> photograph by Sports Graphic Number

相撲を何十年も見ているファンはなぜ騒がないのか?

 この元幕内力士とその仲間(元幕内及び十両の力士たち)は、具体的な名前をあげてだれとだれがいつどういう事情で、どんなふうにやったかを詳細に説明してくれたが、それはここでの主たるテーマではないので「ポスト」誌にゆずる。

 くり返すが、これらの証言を借りるまでもなく、相撲協会は、あるはずがない“無気力相撲”を取締る監察委員会という組織を作って、“故意による無気力相撲あるいは気力相撲”の存在を逆に証明している。

 相撲は古い伝統を持つだけあって、二十年、三十年と熱心に見続けているファンは多い。その人たちの肥えた目には、さきほど触れた元幕内力士の“演技”など簡単に見破れるはずなのだ。

 では、その人たちはなぜ騒がないのだろうか。二人の力士、つまり当事者同士だけの一種の“なれあい”だから、本人たちが口を閉ざしている限り、“証明”できないためか。

 いや、その人たちは、報道することを商売にしているわけではないのだから、べつに“証明”する必要もない。八百長だとわかったら、サッサと相撲に見切りをつけ、相撲を観賞することから去っていくだけだろう。ところが、そういった人たちを中核とする相撲人気はいっこうに衰えを見せない。むしろますます燃え上っていく傾向にある。

 ここに「ナンバー」が、“八百長”を問題にする出発点がある。

 では、ふたたびいったい、相撲の八百長というのはなんだろう。

 あたりまえのことを確認すれば、二人の力士が納得ずくで勝ったり負けたりすることだろう。

 条件をつければ、人々の前で、である。人のみてないところで、いくら八百長をやろうとそれはべつにとりたてて騒ぐことではない。勝手にやればいいのだ。

 いま、日本相撲協会に属する十両以上の力士62人(うち幕内36人)は一年に何番くらい、公衆の前で──つまり興行という意味でだが──相撲をとっているか。

 一年は六場所だから、6×15=90。本場所だけで九十日。その日数と同じくらい、巡業や奉納相撲大会などがあるから、二日にいっぺんは相撲をとっていることになる。

 ほとんど一年中、顔ぶれが変らないといってよい集団が、人の前で二日にいっぺんあの肉体をぶっつけあっているわけだ。

巡業先での花相撲までガチンコだと思っているわけがない。

 で、たとえば、巡業先での花相撲を、あれを全力でとっている、と考えている相撲ファンはいるだろうか。いるとしたら、その人は相撲をまだよく知らない人だ。

 全力でとる、ということを意味する言葉は、相撲社会では“注射”に対して“ガチンコ”という。文字どおり死力を尽してガチンとぶつかりあうことだ。

 花相撲を注意してみればすぐわかるが、決まり手を調べると、「寄り切り」「押し出し」が圧倒的に多い。投げや足技はもとより、寄り倒し、押し倒しも殆どない。

 ひとつには、ケガをしないようにという理由だが、しばしばもっと現実的な事情がある。

 取組みが終って、力士たちはすぐ次の巡業先に旅立たなければならない(最近はとくにこのスケジュールがハードになっている)。つまり、汽車に乗らなければならない。そうするとガチンコで投げたり、投げられたりして、マゲや身体に砂をつけていては、汽車に乗れないわけだ。つまり転んでるわけにはいかないのである。

 この巡業先での取組みも、観客から料金をもらってみせている。そこで、「人からカネをもらいながら、それこそ、無気力相撲とはなにごとだ、ガチンコでやれ!」などといわれたら力士たちは困ってしまうだろう。

 そんなことをしたらケガ人続出で、身体がいくつあっても足りず、巡業先でヘトヘトになり、巡業スケジュールも本場所も滅茶苦茶になる。

 おそらく、巡業の相撲を見物にくる客は、雲つくような大男たちを生まれてはじめて目の前で見て、相撲の“型”を見ることでどこか満足しているはずだ。

 つまり、あれははやくいえば、ショーなんである。

“土俵の鬼”と言われた初代・若乃花の“無力相撲”。

 もっとも、ショーといっても、そこは細かい神経の配慮がなされていて、たいていの場合、その巡業地出身の力士が優勝するように暗黙の了解ができている。

 これを、まさか八百長だと目クジラをたてるわけにはいくまい。

 花相撲までをふくめて、一年中“ガチンコ”でとったとしたら、いくら二子山親方(先代若乃花)がふだんよく口にする“心・技・体”の充実、がなされたとしても、スーパーマンでないかぎり、精神的にも肉体的にも耐えられるはずがない。

 サラリーマンがおそらく十年にいっぺんあるかないかの、肉体的精神的緊張を、彼らに二日にいっぺん求めるのは過酷というものではないか。

 ま、巡業での相撲を、八百長だといって、観客が騒ぎ出し、暴動を起した、などという話はついぞ聞いたことがないから、見物している方も相撲というのはこういうものだ、とそれなりに納得しているのだろう。

 かつて、“土俵の鬼”といわれた若乃花(現二子山親方)は、次の場所、はじめて顔を合わせるはずの相手がいると、巡業中に徹底的に土俵にひっ張り出し、相手が恐怖感を覚えてくるくらいたたきのめしておくのだ、と語ったことがある。本場所で若乃花の顔を見ただけで身体がすくみ、“無力相撲”をとらせるようにさせる戦術なのである。この“無力相撲”と“無気力相撲”つまり八百長は紙一重といえないだろうか。

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