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「これは“野球版”半沢直樹だ」どん底の“広島カープ”に転職した営業企画課長はダメ球団をどう変えた?

posted2020/10/09 17:01

 
「これは“野球版”半沢直樹だ」どん底の“広島カープ”に転職した営業企画課長はダメ球団をどう変えた?<Number Web> photograph by Bungeishunju

2009年に開場したマツダスタジアム

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清武英利

清武英利Hidetoshi Kiyotake

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Bungeishunju

“どん底”続きだった「広島カープ」と「阪神タイガース」。2人の異端なサラリーマンが、両チームの改革に奔走し、優勝を果たすまでを追った傑作ノンフィクション『サラリーマン球団社長』(清武英利 著)が3刷と売れ行き好調だ。
「まさに野球版“半沢直樹”」と話題の本書。広島カープの常務取締役球団本部長・鈴木清明氏がマツダからカープに転職した際の奮闘ぶりを、本書から転載し紹介したい。(全2回の1回目/後編に続く

(鈴木清明が)カープに転職したのは、ロッキード裁判をめぐって政局が揺れた1983年の7月である。すぐに鈴木は自分が大手企業のサラリーマンではなくなったことを悟った。女性を狙ったフィットネスクラブの店長を命じられたのである。

 発案したのは、オーナーだった(松田)耕平である。「球団単体の経営だと収入は限られてしまうから 新しい事業をやろう」と言い出し、鈴木を営業企画課長に据えると、翌月に、「カルピオ」という子会社を作った。カルピオとは、スペイン語で「小さな可愛い鯉」のことである。

 耕平は「子会社が球団より大きくなってもいい」と発想する先進的な経営者で、(松田)元はその血を引いている。親子はバブルに乗じてスキー場やヨットハーバーなどリゾート施設も建設しようと考えていた。新規事業の尖兵はいつも元と鈴木である。まずはスタジオを、「ヘルス・アンド・ビューティフォーラム・カルピオ」と名付け、講師やスタッフを東京から呼んで開店すると、耕平の見込み通りに女性が殺到した。鈴木はびっくりした。

 ──中国地方の美人が全部来たんじゃないか。

「店長がおらんのだったら、鈴木、お前やれ」

 朝から夜まで受講生で埋まり、あまりの忙しさに、店長が2か月もすると辞めてしまった。それを訴えると、耕平は言った。

「店長がおらんのだったら、鈴木、お前やれ」

【次ページ】 「おう、アメリカの独立リーグへ行ってくれや」

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