「谷間の世代」と呼ばれて。BACK NUMBER

谷間の世代・初代主将、羽田憲司。
今も残る悔恨と鹿島コーチでの野心。

posted2019/08/08 11:50

 
谷間の世代・初代主将、羽田憲司。今も残る悔恨と鹿島コーチでの野心。<Number Web> photograph by Yuki Suenaga

2001年ワールドユースに挑んだU-20日本代表で、背番号5のキャプテンだった羽田憲司。現在は鹿島でコーチを務める。

text by

浅田真樹

浅田真樹Masaki Asada

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Yuki Suenaga

 サッカー界で「谷間の世代」と言えば、アテネ五輪に22、23歳で出場した、1981年(及び1982年)生まれを指す。
 10代のころから「黄金世代」と比較され、あまり評価をされてこなかった世代だ。だが、そんな評判を覆すように、彼らのなかからはJ1リーグの得点王や、クラブのレジェンド的存在が生まれている。
 当事者である彼らは世間の評価をどう受け止め、どう成長していったのか。今年38歳となり、現役を続ける者が少なくなってきたいま、彼らの証言から「谷間の世代の真実」を探る。今回は代表チームでキャプテンを務め、鹿島アントラーズなどにも在籍した羽田憲司に訊いた。

 天気のよい平日の昼下がり。鹿島アントラーズのクラブハウス内にある一室で待っていると、ほどなく、練習を終えた羽田憲司がジャージ姿のままやってきた。

「インタビューされるのなんて、久しぶりだな」

 2012年シーズンを最後に、ヴィッセル神戸で現役を引退した羽田は、セレッソ大阪のアカデミーとトップチームで3年間コーチを務めた後、2016年シーズンから、自身がプロ選手としてのキャリアをスタートさせた、古巣・鹿島にトップチームのコーチとして復帰。以来、指揮官の右腕となり、クラブ通算20冠を達成した常勝軍団を支えている。

最初は“谷間”を意識してなかった。

 今回の取材テーマは、「谷間の世代」。もちろん、事前に伝えてある。

「もうかなり前のことだし、ちゃんと思い出せるかな」

 日焼けした顔にはしわも目立つようになってきたが、軽口とともに見せる人懐っこい笑顔は、約20年前から変わっていない。

 2000年1月、18歳の羽田は至福の瞬間を味わっていた。

 第78回全国高校サッカー選手権大会。千葉県代表の市立船橋は、松井大輔らを擁する鹿児島県代表の鹿児島実業を決勝で2-0と下し、3度目の優勝を成し遂げた。しかも1回戦から決勝まで、相手に1ゴールも許さない無失点優勝。そんなスキのないチームのキャプテンを務め、鉄壁を誇るディフェンスの中心にいたのが羽田だった。

 世代屈指のセンターバックは高校卒業後、鹿島入り。一方で、同世代の選手が集まるU-20日本代表にもチーム立ち上げ当初から選ばれ、そこでもキャプテンを務めた。当時のU-20代表とは、すなわち、谷間の世代と呼ばれた選手たちである。

「そう言われていたのは知っていました。ふざけて『オレたち、谷間だからさ』とか言い合っていたこともあったと思います(笑)。でも、いい選手はたくさんいたので、(実力的には)谷間ではなかったと思うし、当時はそれほど意識していませんでした」

【次ページ】 経験値は他の世代よりもなかった。

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