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セリエCから這い上がったインザーギ。
情熱と欲望でボローニャを統率中。

posted2018/09/26 16:30

 
セリエCから這い上がったインザーギ。情熱と欲望でボローニャを統率中。<Number Web> photograph by Uniphoto press

ポジショニング勝負でゴールを量産した“ピッポ”インザーギ。ミランでは苦汁を味わったが、監督業でそのしたたかさを再び発揮するか。

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手嶋真彦

手嶋真彦Masahiko Tejima

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Uniphoto press

 2012年夏の現役引退から6年――。

 体型はスリムなままで、真ん中分けの前髪を指で整える仕草も変わらない。相変わらず色男だが、髪には白いものが増え、醸し出す雰囲気には渋みすら含まれる。

 フィリッポ・インザーギがセリエAに戻ってきた。

 いや、こう言い換えた方がいいかもしれない。転落した谷底から這い上がってきた、と。

 ミランの監督に就任したのは今から4年前。2014年の夏だった。インザーギが指導者に転身してから3年目。経験不足を指摘する懐疑論は拭えなかった。結果、インザーギ率いるミランは2014-2015シーズンのセリエAを二桁順位の10位で終える。

 クラブの経営難が監督の仕事を困難にしていた側面はあるだろう。インザーギが現役を引退した2012年夏には、ズラタン・イブラヒモビッチとチアゴ・シウバの両輪を失った。脂の乗り切った当時30歳のFWと28歳のCBを売却するしかないほど、ミランの財政状況はすでに逼迫していたのだ。それでも国内リーグ優勝18回を誇るこの名門クラブが二桁順位に沈むのは、1997-1998シーズン以来17季ぶりだった。

名波も在籍したベネツィアで再起。

 それ見たことか。

 名選手、名監督ならず。

 そんな非難を浴びながら、インザーギはミランの監督をわずか1年で解任される。表舞台から転げ落ち、雌伏の日々が始まった。

 名選手であり、優れたストライカーだったのは間違いない。ユベントスで4季(1997年夏~2001年夏)、ミランで11季(2001年夏~2012年夏)に渡ってプレーすると、セリエAは370試合出場で156ゴールをマークした。81試合に出場したCLでの46ゴールは歴代9位で、イタリア人選手の最多記録となっている。

 2012年夏の現役引退後はそのままミランに残り、若手の育成に携わる。2012-2013シーズンは15歳以下となるU-15チームを担当し、U-19を率いた2013-2014シーズンは国際ユース大会(ビアレッジョ杯)で優勝するなど、そこまでは順調だった。

 2015年夏にミランを追われたインザーギは、1年間の休養を経て、3部リーグからの再起を図る。新天地は、元日本代表の名波浩がかつて在籍したベネツィアだった。

【次ページ】 ネスタ率いるペルージャに勝利。

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