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<ドキュメント第1回キリンカップ>
「JAPAN CUP 1978」の衝撃 【前篇】 

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加部究

加部究Kiwamu Kabe

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posted2018/05/25 12:00

<ドキュメント第1回キリンカップ>「JAPAN CUP 1978」の衝撃 【前篇】<Number Web> photograph by PHOTO KISHIMOTO

構想から実現まで3年かかった。

 出場チームの選択には申し分がなかった。奥寺康彦が在籍する1FCケルンは必須だったし、ボルシアMGはブンデスリーガで3連覇中の強豪。代表監督の二宮寛と昵懇のヘネス・バイスバイラーがケルンの監督であり、ボルシアの前監督だったので、こうした友好関係からも交渉はスムーズに進んだ。

 コベントリーも国内リーグでは総得点2位の攻撃的なチームで、パルメイラスも含め4チームとも既に来日経験があった。これに韓国、タイの両国代表が出場を快諾し、全8チームが出揃うのである。

「結局構想が出てから実現するまで、3年間ほどかかったんじゃないでしょうか」(中野)

 二宮寛が日本代表監督に就任したのは、ジャパンカップ開催の2年前のことだった。モントリオール五輪予選で敗れ、前任の長沼が退陣。二宮は「もう社業に専念しよう」と考えていた矢先に、三菱重工社長から「これは社命だから引き受けろ」と言われた。

 当時代表チームと言えば、選手の他は監督、コーチと最小限のスタッフのみ。代表監督を引き受けると、そのまま技術委員長の肩書きもついてくるのが慣習となっており、二宮の仕事は、強化プランの作成から対外交渉まで多岐に渡った。まただからこそ、いくつかの斬新な改革が可能だったのかもしれない。

 二宮は考えていた。

「もちろん負けていいなどと思うなら、監督を引き受ける資格はない。しかし一方で目先の勝負だけを求められるなら引き受けていなかった。私が追求するのは、自分が率いるチームの成功だけではなく、日本サッカーの長いリレーの中で、次の人(監督)にきちんとバトンを渡すこと。立派に育つのは、もっと先でもいい」

食事を含め、環境が未整備だった。

 事実、日本サッカーはすぐに結果を望めるような状況ではなかった。優れた素材が芽を出さないだけでなく、何よりまず戦う環境が未整備のままだった。代表合宿でも旅館に宿泊し、大広間で食事を取る。食膳には、野菜炒めに干物がのり、ご飯だけが食べ放題。「いただきます」から5分も経過すると、あちこちから「ご馳走さま」の声が挙がり、選手たちは三々五々手付かずの膳を後にして部屋を出て行くのだった。

 とても厳しいトレーニングに臨む選手たちの栄養価を満たす内容ではなく、彼らは自腹を切って近所の台湾料理屋へ移動し、そこで食事を取っていたのだ。また海外遠征に出ても、移動時の服装はバラバラ。そこでまず二宮は「選手たち自身がプライドを持てる環境整備」に着手する。

 浦和南高校時代に三冠を獲得し、古河電工に入社1年目から代表に選ばれていた永井良和が振り返る。

「二宮さんが監督になるまでは、完全にアマチュアの環境でした。それが一気に改善された。合宿も検見川から嬬恋の施設に変わり、旅館での雑魚寝からビジネスホテルの個室に格上げされ、食事も見違えるように良くなった。本当に快適になりましたね」

【次ページ】 代表引退を決断した釜本を口説いて。

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