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元FC東京“ノリカル”は引退していた。
現役時代の苦楽は仲介人で生かす。 

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飯尾篤史

飯尾篤史Atsushi Iio

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posted2018/05/13 08:00

元FC東京“ノリカル”は引退していた。現役時代の苦楽は仲介人で生かす。<Number Web> photograph by Atsushi Iio

西が丘でのFC東京U-23の試合に駆けつけた“ノリカル”こと鈴木規郎。セカンドキャリアでもサッカーに携わる。

「月1万円でいいから上げて、とか」

「選手エージェント制度」に代わって「仲介人制度」が導入されたのは、2015年4月のことである。以前は試験を受けてライセンスを取得しなければ代理人になれなかったが、現在は登録さえすれば仲介人として認められる。参入へのハードルが下がったことで、元選手である鈴木の選択肢になり得たのだ。

 振り返れば、10代だったプロ1、2年目は代理人と契約を結んでおらず、百戦錬磨の強化部長との交渉にひとりで臨んでいた。自身の出場試合をすべてチェックし、アピールポイントを書き込んだノートを握りしめて。

「月1万円でいいから上げてくださいとか、粘り強く交渉してました。そういう意味では、僕は若い頃から仲介人の経験を積んでいたようなものなんです」

 '17年は、最後に契約していた代理人の事務所に所属させてもらい、夏に仲介人登録を済ませ、経験を積んだ。

現役時代の失敗談も伝えている。

 鈴木にとって武器となるのは、やはり、自身が元選手であるというキャリアだ。

「例えば、東京時代、監督だった原(博実)さんに言われたのは『1試合5本シュートを打て』ということ。『打てなかったら、スタッフ全員にコーヒーを奢れ。そのかわりゴールを決めたらコーヒーを奢ってやる』と。そのときは『割に合わないな』と思ったけれど(笑)、そういう意識は大事だよって」

 契約する選手にはプレー映像を編集して送り、望めばディスカッションもする。もちろん、自身の失敗談も伝えてきた。

「神戸時代には監督のカイオ・ジュニオールと衝突して干されて、フランスに移籍しました。若い頃は、監督の言いなりになっていては、自分という商品を生かしていけないと思っていた。生き残るために守りに入りたくなかったんです。それで失敗したことも多いし、今では申し訳ないことをしたとも思っていて。だから、選手には『監督に歯向かってもいいことは何もないよ』と話すんです(笑)」

【次ページ】 アイディアは僕、判断は親友のヤナ。

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