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内田篤人に帰国を決断させた“流れ”。
「動けるうちに好きな鹿島へ帰る」
 

text by

寺野典子

寺野典子Noriko Terano

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photograph byGetty Images

posted2018/01/25 07:00

内田篤人に帰国を決断させた“流れ”。「動けるうちに好きな鹿島へ帰る」<Number Web> photograph by Getty Images

ノイアーはバイエルン移籍後も内田とピッチ上で笑顔を見せた。それほどまでブンデスリーガで愛されたのだ。

「今のウッシーに……」と気遣ってくれたノイアー。

 海外のクラブで居場所を作るには、選手とのコミュニケーションが重要だ。酒席などでの付き合いも含めて、こちらから輪に飛び込んでいくことが必須条件だと言われる。しかし内田はそういう行動を取らず、異国にいても自然体だった。ドイツ語は話せなかったが、通訳もつけなかったほどだ。

 あるミーティングでのこと。監督が怒鳴り散らし、選手一人ひとりにダメ出ししたことがあった。内田に対しても同様に叱責したとき「今のドイツ語はウッシーには理解できない」と指揮官に言ってくれたのは、ノイアーだった。

「本当はチームに溶け込むために、バカ騒ぎするとか、そういうこともしなくちゃいけないんだとは思う。でもシャルケのチームメイトは、ロッカーの隅で、黙って周りの様子をじっと見ている僕の存在をOKしてくれた。最初はやっぱり『寿司屋へ連れて行ってよ』とか、『みんなでワイワイ騒ごうぜ』って、なにかと引っ張りだそうとしてくれたけど、僕がかたくなに拒んだからね。

『僕は日本人だから、そんなことはしない。踊ったり、歌ったりはしないんだよ』って(笑)。そういうキャラでも許してもらえた。だから、シャルケでは本当に無理をする必要がなかった。プレーもそうだし、周りがみんな僕のことをわかってくれた」

 内田がヨーロッパサッカーとシャルケに夢中になっていったのと同じように、チームメイトも徐々にそんな内田に魅かれていったのだろう。

若い頃は感情を見せるのは嫌だったけれど。

 とはいえシャルケでは主力になって以降も競争は激しく、余裕を感じることはなかった。何度も監督が代わり、そのたび「自分」を証明し続けなければいけない。それでも彼はいつもレギュラーポジションを手にした。

 自然体で過ごしながらも、ヨーロッパでの戦いを経験したことで確実にJリーグ時代の内田篤人からは変化していた。以前の内田は、公の場では自身の感情を見せないように心がけていた。彼自身も「強がっていないとやっていけない」と語っていたこともある。

 ではブンデスでの日々を経て、何が変わったのか。内田はこう話している。

「若い頃は自分の感情を見せるのが嫌だったし、自分の中で抱いていればいいと思っていた。でも、僕よりデカい奴が僕より高くジャンプしたり、速く走る。その差を気にしてられないし、気持ちを引きずり出された感があります。自分みたいに『控え目でいいや』と思う人間が『前に出ないといけない』と思えたことはよかった」

【次ページ】 「僕は現役としての折り返し地点を過ぎているから」

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