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セレッソでルヴァン杯制した尹晶煥。
“らしくない”異能の韓国人監督の実像。 

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吉崎エイジーニョ

吉崎エイジーニョ“Eijinho”Yoshizaki

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photograph byJ.LEAGUE PHOTOS

posted2017/11/07 17:00

セレッソでルヴァン杯制した尹晶煥。“らしくない”異能の韓国人監督の実像。<Number Web> photograph by J.LEAGUE PHOTOS

ルヴァンカップ優勝の瞬間、喜びを爆発させた尹晶煥監督。伝統あるチームの長い歴史年表に、輝く文字を刻むこととなった。

日韓W杯時、代表メンバーながらほぼ出場できなかった。

 2017年3月30日にじっくり1時間話を聞く機会があった。当時のインタビューでは、「らしさ」の根源について、いくつかの質問をぶつけてみた。

 '02年ワールドカップ時には最終エントリーに入りながら、体力重視のチームにあって1分も出場機会がなかった。これについて「ショックから考えが決定的に変わったのか」と聞いたが、答えはこうだった。

「違う。しかし大会後に本場のサッカーを見るきっかけになった。自分に足りなかった、運動量が必要なのだな、と」

 またサガン鳥栖監督時代から持ち続ける運動量、闘志、守備といった尹の監督としてのサッカーの共通事項は「その前に監督だった松本育夫氏が築いたものを継承した。『最後まで走れ』という」

 いっぽうで、当時の原稿では紹介しきれなかったエピソードがある。

 彼の“原風景”とそれに関する後悔だ。

現役時代は、アイドル的存在だったはずの人間が……。

 1995年から'99年まで(つまり'00年にセレッソに加入する前)、尹は“ブイブイ言わせていた”。Kリーグの富川SKというソウル首都圏のクラブ(現済州ユナイテッド)で背番号10を背負い、ゲームメーカーとして君臨した。取材当時、韓国のサッカー専門誌記者がこんな話をしていた。

「富川というクラブは、ソウル近隣にホームタウンを置きながら、試合はソウル市内でやっていたこともあり、元々不人気クラブでした。スタンドに閑古鳥が鳴いていたのを……尹晶煥が状況を変えたのです。彼を観に集まる観客が増えた。監督も尹を中心に据え、当時のKリーグでは珍しい、パスを中心にした華麗な攻撃を志向するという」

 当時の映像を見ると、長い髪にヘアバンドをつけてプレーする尹晶煥の姿がある。いわばアイドル的存在ですらあった。

 しかし、尹自身、鳥栖の監督時代にこの頃を振り返り、ある思いが浮かんだという。

「('01年にサンフレッチェ広島でも指揮を執った)ヴァレリー・ニポムニシ監督と'95年から'98年まで一緒に仕事をしました。かなり攻撃的に展開する監督で。もちろん、悪いことではないですが、当時、もし守備的な部分が整備できていたら、でなくとも明確に守備をどうしようという部分だけでもあれば、楽しいだけじゃなくて、結果も出たのではないかと」

 そうしてたどり着いたのは、どの国でもない、誰でもない、自分のスタイルをつくることだった。

【次ページ】 「私なりの、私だけのサッカーがないと、生き残れない」

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