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桐生祥秀の9秒98が生まれた軌跡。
土江コーチが語る反発、信頼、進化。 

text by

折山淑美

折山淑美Toshimi Oriyama

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photograph byKyodo News

posted2017/09/12 12:50

桐生祥秀の9秒98が生まれた軌跡。土江コーチが語る反発、信頼、進化。<Number Web> photograph by Kyodo News

会見で土江コーチ(左)と握手する桐生。反発があったとの報道もあったが、最終的には信頼関係を築いたからこその快挙となった。

正式計時、記者会見でずっと涙を流していた。

 その決断も記録を狙ってのものではなかった。東洋大のユニフォームを着て走る最後の大会。桐生は、自分が一番勝負をしたいと思う100mに背を向けることを潔しとしなかっただけなのだ。多田修平との勝負から逃げるのではなく、キッチリ戦って大学生活を終わりたい――という気持を打ち消すことができなかったからだ。

 そのレースをスタンドのプレス席で見ていた土江は、速報計時に「追い風1.8m」「9秒99」と出た瞬間両手を突き上げた。そして、両手を合わせて祈りながら正式計時の発表を待ち続けた。「9秒98」と表示されると、大声を上げて涙をボロボロ流しながらトレーナーの後藤勤と抱き合い、周囲の人からの祝福を受け入れた。さらに記者会見でも、桐生が感謝の言葉や入学時に反発したことなどを口にする横で、涙を流し続けていた。

「僕がいっぱい(桐生に)介入して記録を出させようとした時の方が出なかったので……。それがよく分かって今回は勉強になりました」と土江は苦笑する。

 桐生の東洋大入学とともにコーチに就任した時は、「単純にこの選手とやりたいと思っていたが、これだけ注目されている選手だから失敗は出来ない。もし失敗したらその後は陸上競技の指導者は出来ない」という覚悟を決めていたという。

「僕自身、競技者としてはナショナルチームに入ってやっていたし、指導者としても数年の経験はあったが、桐生とやるようになってからはそれまでやってきた手法は一切通用しないな、と思いました。それまではこっちから『こうだ』という客観的な視点のコーチングしか出来ていなかったが、桐生とやるなかで、選手を主体に考えて『どう感じているのか』『どう助言すればいいのか』というようなことをイチから勉強したと思います」

「僕を速く走らせる自信がないんですね」

 土江が今でも忘れられないのは、桐生が1年になったばかりの春先に「あなたは僕を速く走らせる自信がないんですね」と言われたことだという。「僕は細かいことをゴチャゴチャいうタイプだから、そのフラストレーションが溜まっていて爆発したのだと思う」と振り返り、こう続けた。

「でもあの時、僕も本当に自信がないのかなと思いました。僕は何をするにしても常に根拠を大事にしたいと思っているし、こういう経過があるからこういう記録が出る、というのを絶対にブラさないようにしているんです。

 実際に桐生が1年の時は、彼に9秒台を出させるという根拠を持てなかったので、そういう内容のアドバイスは言わなかった。

 でも、そういう問答の中で桐生に、『僕は五輪のファイナルに出てメダルを獲ることが目標なんです。そのためにどうやればいいか考えてください』と、ズバッと言われたんです」

【次ページ】 徐々に徐々に信頼し合える関係になった。

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