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内藤哲也がタッグリーグ改革も放言。
「どうせ手抜き」とは言わせない! 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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photograph byTadashi Shirasawa

posted2016/11/17 11:00

内藤哲也がタッグリーグ改革も放言。「どうせ手抜き」とは言わせない!<Number Web> photograph by Tadashi Shirasawa

11月18日の『WORLD TAG LEAGUE』開幕戦で、内藤と「X」は、ジュース・ロビンソン&棚橋のタッグと対戦する。

外国人を中心に、電撃移籍やボイコットが続出。

 この『最強タッグ』人気を受けて、新日本も'80年から『MSGタッグリーグ戦』をスタートさせる。'80年代といえば、新日本と全日本がそれぞれテレビ局をバックに、熾烈な興行戦争を繰り広げていた時代。同時期に同じ企画で真っ向勝負することとなったタッグリーグ戦では、毎年のように刺激的な事件が起こることとなった。

 まず、'81年には新日本の『MSGタッグ』最終戦の3日後、新日の外国人エースだったスタン・ハンセンが、全日本の『最強タッグ決定リーグ戦』が行われている蔵前国技館に、ブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ組のセコンドとして登場。そのまま全日本参戦を表明。

 さらに'84年には、新日本の『MSGタッグ』出場のために来日したはずのダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミスが、全日本への電撃移籍を発表。そのまま『最強タッグ』へ参戦するという、前代未聞の事件が起こった。

 それ以外にも、新日本では'85年の『IWGPタッグリーグ戦(WWEとの契約解消によりMSGタッグから改称)』の決勝戦である仙台大会当日、ブルーザー・ブロディが出場をボイコット。'87年には『ジャパンカップ争奪タッグリーグ戦』開催中に、前田日明の長州力顔面蹴撃事件が勃発するなど、新日本にとって'80年代のタッグリーグは、華やかな祭典でありながら、必ず何か事件が起こる“呪われたシリーズ”でもあったのだ。

GIクライマックスほど定着した感はない。

 その後、新日本は'88年から'90年までタッグリーグを封印するが、'91年から現在の『WORLD TAG LEAGUE』の前身にあたる『SGタッグリーグ戦』をあらためてスタート。2度名称を変えながらも、現在まで毎年、年末もしくは秋にタッグリーグ戦を行ってきた。

 しかし、夏の『G1CLIMAX』ほど風物詩として定着した感はない。むしろ、団体の規模は小さくなったものの、未だに年末といえば、全日本の『最強タッグ』の方をイメージするファンも多いことだろう。

【次ページ】 新日にはシングルマッチへの強いこだわりがある。

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内藤哲也
新日本プロレス

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