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あの悔しさが広島優勝の原動力に。
1996年メークドラマの「悲劇」。 

text by

鈴木忠平

鈴木忠平Tadahira Suzuki

PROFILE

photograph byNaoya Sanuki

posted2016/09/27 17:00

あの悔しさが広島優勝の原動力に。1996年メークドラマの「悲劇」。<Number Web> photograph by Naoya Sanuki

1989年、ドラフト1位で入団した野村謙二郎は'91年の優勝メンバーとなり、“メークドラマ”の'96年には3番遊撃手としてチームの要となっていた。

野村が蒔いた種は、太い幹の木にまで育った。

 野村は探していたものを見つけた。それからは周りの声など気にせず、一軍という雨風にさらして、育てた。カープという球団にとって、絶対に必要なことだと信じていた。

 その後、連続Bクラスの歴史に終止符を打ち、'14年のシーズン限りで監督を退任した。ただ、野村が残したものは確実に、球団の財産になった。

 菊池は今年、相手の得点を消してしまう驚異の守備力と、我慢と勇気を操る打撃でチームを引っ張った。

 グラウンドだけではなかった。ビジター球場で敗れた時、帰りのバスに乗り込んでくる選手たちはうつむきがちになる。自然と狭い車内の空気は沈滞する。そんな時、決まって顔を上げ、声を張り上げながら乗り込んできたのが菊池だったという。

「お疲れっしたー!」

 その掛け声が、明日への合図となった。野村が蒔いた種は、チームの芯となる太い幹に育ったのだ。

「記憶から消したいくらいなんです」

「去年、痛い目にあって、そこに経験を上塗りして、上塗りして、菊池も丸(佳浩)も、1年目の『キクマル』よりも、もっと幹の太いコンビになってくれた。どれだけ状態が悪くても、代われと言われるまで、出続けるのがリーダーだと思う。監督をしている時、周りからいろいろなことを言われながら使ってきた選手が活躍してくれるのは、嬉しいですね」

 あの、1996年を語る時、野村の表情は険しく、口調も刺々しくなった。思い出せば、今もまだ、瞬時に腹の中が煮え繰り返るのだということが伝わってきた。悔しさは風化してなどいなかった。

「今でも悔しい。だから、なるべく思い出したくない。記憶から消したいくらいなんです……」

 そうやって語り出した証言に耳を傾けると、わかった。あのシーズンの舞台裏で本当は何があったのか。なぜ、野村はその後、監督として“種”を蒔いたのか。

 そして、紀藤真琴、佐々岡真司ら、野村とともに戦った男たちをめぐるうちに、見えてきた。20年前の悲劇と、今の歓喜とのつながりが……。

 1996年夏、巨人に11ゲーム差で首位をひた走っていた広島のベンチには、まるで優勝して当然と言わんばかりの雰囲気が漂っていた。そこからチームは一気に暗転し……。当時「ビッグレッドマシン」と呼ばれていた強力打線で活躍していた野村謙二郎、さらに、紀藤真琴、佐々岡真司、緒方孝市らへの密着取材で綴る、あの夏の舞台裏。続きは、Number最新号「カープの魂」の記事「1996年戦士たちの証言 メークドラマ“悲劇”をこえて」でお読み下さい!
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