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大仁田vs.船木の電流爆破マッチ実現。
“持たざる者”の知恵と勇気が交錯。 

text by

堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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photograph byYukio Hiraku

posted2016/07/19 07:00

大仁田vs.船木の電流爆破マッチ実現。“持たざる者”の知恵と勇気が交錯。<Number Web> photograph by Yukio Hiraku

前哨戦で大仁田を締め落とす船木だが、大仁田にとっての“我が家”である電流爆破でどのような戦いを見せるのか。

「大仁田さん、チケットは?」と門前払いの過去も。

 現在、日本にプロレス団体は大小合わせると約100団体もあると言われているが、'80年代半ばは、ジャイアント馬場の全日本とアントニオ猪木の新日本の2団体だけだった(女子プロレスは除く)。その“馬場-猪木支配体制”をまず打ち破ったのがUWFだ。

 前田日明を中心に、従来のプロレスの胡散臭い部分を排除し、格闘技としてのプロレスを目指したUWFは、'88年に旗揚げした第2次活動期において、社会現象となるほどの人気を獲得。全日本、新日本を人気で一気に抜き去り、大ブームを巻き起こした。

 大仁田のFMW旗揚げは、このUWF成功の影響を少なからず受けている。

 大仁田はもともと全日本のジュニアヘビー級王者として活躍していたが、左膝粉砕骨折のケガが原因で'85年に一度は引退。タレントに転向するが長続きせず、事業も失敗。借金まみれとなり、肉体労働で食いつなぎながら、プロレス界復帰を模索するようになる。

 しかし、当時のプロレス界で引退した大仁田を使おうとする団体はなく、ジャパン女子プロレスのコーチを経て、世界格闘技連合なる空手団体を中心とした組織と関わるようになり、'88年12月、その世界格闘技連合の使者として、当時人気絶頂のUWFの会場に挑戦状を持って現れるが、対応にあたったUWFの神新二社長に「大仁田さん、チケット持ってますか?」と、門前払いされてしまう。当時の大仁田は、まともに相手にすらしてもらえない存在だったのだ。

有刺鉄線電流爆破デスマッチで大ブレイク。

 この屈辱をバネに、翌'89年に大仁田は自らの団体FMWを旗揚げ。FMWの正式名称は「フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング」。当初はUWF人気に便乗し、異種格闘技戦を売りにした団体だった。しかし大仁田自身に格闘技経験がなく、資金力もないFMWは、まったく無名な格闘家をかき集め、「プロレスはなんでもありだ!」と開き直って、反則、場外乱闘ありのハチャメチャな闘いを展開。これがUWFのルールに則ったマジメな闘いに堅苦しさを感じ始めていた一部プロレスファンに受け始め、カルト的な人気を獲得する。

 さらに、当時はどこの団体もやっていなかった“空き家”であるデスマッチも大々的に展開するようになり、'90年8月4日に初めて行われた、大仁田厚vs.ターザン後藤のノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで一気に大ブレイクしたのだ。

【次ページ】 半年で潰れると揶揄されながらもハードコアを確立。

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