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「全てが日本仕様」の満点スタート。
中邑真輔のWWEデビューは前代未聞。 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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posted2016/04/20 10:30

「全てが日本仕様」の満点スタート。中邑真輔のWWEデビューは前代未聞。<Number Web> photograph by WWE

WWEのリングでも、中邑真輔は観ている側が驚くほどに「シンスケ・ナカムラ」だった。その魅力がアメリカを席巻する日は近い。

馬場もキラー・カーンも、ヒールだった。

 これまで、本場アメリカで成功した日本のレスラーたちは、必ず“変身”を強いられてきた。

 WWEでメインイベンターとなった日本人レスラーといえば、'60年代前半のジャイアント馬場、'70年代から'80年代に活躍した新日本プロレスの大型レスラー、キラー・カーンがその筆頭だが、馬場はババ・ザ・ジャイアントのリングネームで東洋から来た巨大な怪物になりきり、キラー・カーンは日本人ですらなく、弁髪を結ってモンゴル出身の“蒙古の怪人”になりきった。

 そして両者ともに、メインイベンターであることは間違いないが、あくまでヒール(悪役)のトップ。馬場は時のNWA王者バディ・ロジャース、カーンはハルク・ホーガン、アンドレ・ザ・ジャイアントというヒーローの敵役であり、ウルトラマンにおける怪獣、仮面ライダーにおける怪人の役割。ヒーロー自身になることはなかったのだ。

グレート・ムタのペイントは、ヒールの象徴。

 それは、WWE以外のアメリカマットでトップを張った日本人レスラーも同様だ。'80年代前半にテキサス州ダラスなどで活躍したザ・グレート・カブキはシンガポール出身の謎の空手家という設定、'80年代後半にメジャー団体WCWで活躍したグレート・ムタはそのカブキの息子というギミックで、共に顔面には不気味なペイントを施した東洋系ヒールだった。

 馬場や武藤敬司などは、日本では正統派のベビーフェイス(善玉)の筆頭だが、アメリカマットで日本スタイルそのままで闘うことはできなかったのだ。

 例外としては、'70年代末から'80年代初頭、アントニオ猪木、藤波辰巳(当時)、初代タイガーマスクら新日本のトップレスラーが、日本でのリングネーム、ファイトスタイルそのままでWWEの殿堂MSG(マディソン・スクエア・ガーデン)に登場しているが、これはアメリカの観客のためというより、テレビを通じて日本の視聴者に向けられて組まれたもの。当時業務提携中だった新日本の頼みを受けて、WWEが“ワクを空けてくれた”という意味合いが強い。アメリカのファンが、日本のスーパースターである猪木、藤波らを欲したとはいえないものだった。

【次ページ】 アメリカでも、三沢やライガーが1990年代から人気に。

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