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谷繁元信、史上初の3018試合出場。
捕手失格寸前で気づいた“自分の形”。 

text by

田口元義

田口元義Genki Taguchi

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photograph byNIKKAN SPORTS

posted2015/08/04 10:40

谷繁元信、史上初の3018試合出場。捕手失格寸前で気づいた“自分の形”。<Number Web> photograph by NIKKAN SPORTS

1989年のデビュー以来、2014年までシーズンの半分以上の試合に出続けている谷繁元信。2000本安打も達成し、まさに「継続は力なり」を体現する捕手だ。

佐々木主浩が若き日の谷繁に感じた、ある不安。

 '90年に入団し、'91年から守護神に定着していた佐々木主浩が、秋元とバッテリーを組むことを望んでいたのだ。

「なんで僕じゃダメなんですか?」

 谷繁は佐々木に不満をぶつける。すると、守護神からはっきりと現実を突きつけられた。

「俺がワンバウンドのフォークを投げる時、お前が不安がるからだよ」

 そのエピソードを話してくれた際、谷繁は当時の意識の甘さも同時に語っていた。

「そこが基礎だったというのはありますね。秋元さんのキャッチングはうまかったんですけど、要は僕が下手くそだっただけで。『じゃあ、ワンバウンドを止められるようになれば使ってもらえるんだ』と思った時に、とにかく練習したっていうのはありました。

 正直に言えばね、4年目('92年)の夏までは、『普通にやっていればそのうちレギュラーになれて、プロでもある程度はできるだろう』というような軽い気持ちでしたから。でも、そのあたりから『このまま何もしなければ、そのうちクビになるな。キャッチャーとして自分に何が必要なのかを探して、それに対して取り組んでいかないとダメだな』と思うようになりましたよね」

外野コンバート案から庇ってくれた大矢明彦という存在。

 実は翌'93年のシーズン開幕前、当時の指揮官だった近藤昭仁が「谷繁はキャッチャーとしてダメだ」と外野へのコンバートを考えていたという。直接告げられたわけではなかったが、それは谷繁の耳にも入っていた。

 そんな「捕手失格」の窮地から救ってくれたのが、同年からコーチに就任した大矢明彦だったという。谷繁は念を押すように言っていた。

「大矢さんが僕を庇ってくれたみたいなんですよね。前の年に『クビになるかも』と思ったり、そういうことがあったり。だからね、僕のプロ野球人生ってスムーズに進んできたわけじゃないんですよ」

 谷繁の「積み重ねの精神」は、この年にはっきり芽生えたといってもいい。

【次ページ】 レギュラーを手中に収めて以降も、鍛錬を積み重ねた。

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