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常にラグビー界の先頭を走っていた。
上田昭夫さんの表情が忘れられない。 

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生島淳

生島淳Jun Ikushima

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posted2015/07/26 10:50

常にラグビー界の先頭を走っていた。上田昭夫さんの表情が忘れられない。<Number Web> photograph by AFLO

1980年代に、慶應ラグビー部の監督を務めていた頃の上田昭夫さん。過去30年で、日本選手権を制した大学は早稲田と慶應の2つしかない。

 上田昭夫さんが亡くなった。

 私は1999年、慶應大学ラグビー部の創部100周年に合わせ、Number誌上で『慶應義塾體育會蹴球部』を連載し、上田さんには幾度となく話を聞いた。

 テレビのニュースキャスターの経験もあり、弁舌はいつも爽やかだった。私も仕事上たくさんの声を聞いてきたが、上田さんの声の質は「特上級」だったと思う。

 私が上田さんの声に何十時間と耳を傾けたこのシーズン、慶應は見事に優勝を飾った。

 慶應ラグビーの歴史を振り返ってみると、1985年度、1999年度の2度の大学選手権での優勝は、いずれも上田さんが監督を務めているときだった。1985年度は、当時上田さんが勤務していたトヨタ自動車を破って日本一にも輝いた。

「そのおかげで会社にいづらくなっちゃったんだけどさ」

 そう言ってニッコリ笑った表情が今も目に浮かぶ。

 2度の優勝が、上田さんの監督時代だったのは偶然ではない。

 上田さんは常に他大学に対して一歩先んじるための「知恵」、今の言葉でいうなら「ソフト」を探していた。

 1985年度のスクラムハーフを務めた生田久貴氏は、こう振り返る。

「当時、相手チームの分析を入念に行うことは珍しかったんじゃないでしょうか。上田さんは明治、早稲田、日本選手権の相手のトヨタをしっかり分析していましたね。その後は当たり前のことになりましたが、上田さんは時代よりも早かった」

 上田さんのお父様は公衆衛生学の研究者だったが、そうした理系の遺伝子が上田さんにも宿っていたと思う。

慶應ラグビー部創部100周年に優勝するために。

 一度チームを離れた後、今度は1999年度に違ったアプローチで優勝へと導いた。

 創部100周年に向けても、上田さんの「プロジェクト力」が存分に発揮されていた。

 日本ラグビーのルーツ校として、部の「ミレニアム」の年に優勝することは至上命題だった。上田さんは100周年に合わせて、有望な高校生のリクルーティングに力を入れ、「アドミッションズ・オフィス入試」(AO入試)と呼ばれる自己推薦方式の入試を最大限に活用した。書類、面接の指導などを丁寧に行って、慶應はリクルーティングで優位に立った。

【次ページ】 グラウンドの外、仕組みでたぐり寄せた優勝。

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