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リングの匂いまで感じるほど、
リアリティに富んだ短編集。
~『ミリオンダラー・ベイビー』~ 

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馬立勝

馬立勝Masaru Madate

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posted2014/03/25 10:00

リングの匂いまで感じるほど、リアリティに富んだ短編集。~『ミリオンダラー・ベイビー』~<Number Web> photograph by Sports Graphic Number

『ミリオンダラー・ベイビー』F・X・トゥール著 東理夫訳 ハヤカワ文庫 743円+税

 アメリカにはボクシング小説の伝統がある。本書の著者は新聞のインタビューで「ボクシングは人生の暗喩、縮図と言うが、人生こそがボクシングの縮図だ」と言った。ごく少数の勝者が名誉も金も総取りし、それに伴う権力までも握る格差社会。ボクシング界そのまま、と言うのだ。だからこそ多くの作家がボクシングを書き続けた。

 本書は、100年前のジャック・ロンドンからアーネスト・ヘミングウェイを経てノーマン・メイラーと続くボクシング文学の伝統に連なる作品。短編が5編、中編が1編、リングに命を賭け、社会の底辺から這い上がろうとするボクサーとトレーナー、カットマン(止血係)、プロモーター達の血と汗と欲望と、そして挫折の世界をクールな眼差しと力強い筆致とで描き切った。

 表題の「ミリオンダラー・ベイビー」は、クリント・イーストウッド監督で映画化され、作品賞をはじめ主要4部門でアカデミー賞を獲った本書中のベスト作だ。30歳を過ぎた女性ボクサーと老トレーナーの頂点を目指す道行が一転、現代社会が抱える大きな問題の一つに収斂する展開が息をつかせない。

ボクシングのカットマン経験者が描くリアルな情景。

 際立つのは、作品すべてに織り込まれるボクシングに関わる豊かな知識が生むリアリティ。精緻な血止め法、不正薬物の作り方、反則技、ジムやロッカー、リングの陰鬱な空気とその匂いまで……ボクシング界に身を置く人物が書いたことがすぐ分かる。

 F・X・トゥールは、70歳で出版した本書が作家デビュー。ただしこれは仮名で、聖人フランシスコ・ザビエルの頭文字と作者と同じアイルランド系の名優ピーター・オトゥールの名の組み合わせだ。俳優、海軍入隊、メキシコでの闘牛士と転々とし、結婚と離婚が3度。50歳を前にボクシングにのめり込みカットマンに。その間ずっと作家を目指していた。

 本書巻頭の「モンキー・ルック」が文芸誌に50ドルで売れたのが夢実現の第一歩だが、映画化で有名になる2年前に死んでしまった。まるで自作中の人物そのままだ。ハードボイルドの国ならではの作者と作品、人生の重いパンチの作品集。

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