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<私が今日も走る理由> 1300年で2人のみ! 千日回峰行満行の大阿闍梨 ~塩沼亮潤さん~ 

text by

山田洋

山田洋Hiroshi Yamada

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photograph byAtsushi Kondo

posted2014/04/26 10:30

<私が今日も走る理由> 1300年で2人のみ! 千日回峰行満行の大阿闍梨 ~塩沼亮潤さん~<Number Web> photograph by Atsushi Kondo

「行にハマってはいけないんです」

 そして話は、我々が陥りやすい、手段が目的化してしまう話題へと移っていった。

「市民ランナーも年々走る距離が伸びていくって話をされていましたよね? 行の場合は、行にハマる人が出てくるの。行はあくまでもプロセスなのに、行自体が目的になってしまう人が出てくる。過酷な行をした人が偉いんだっていう考え方ですね。その深みにハマると『行屋』、つまり修行オタクになってどんどん過酷な行を求めていくんだけど、その過酷の極みとは言ってみれば『死』なんです。でもね、死んだら意味がない。生きて行を終えてこそなのです。ランナーの皆さんも走り始めた時は、距離を伸ばすとか、もっと過酷なレースとかが目的ではなかったはず。なので、そこにハマってはいけないんです」

 耳の痛い話ではないだろうか。走ることでも日常の仕事でも、この手の罠に出くわし、会社の上司や先輩から小言を言われた経験は誰しもある。

「行は大学みたいなものだと思うんですよね。大学は行くことが目的じゃなく、その後、それぞれの専門分野において社会に貢献するために大学に行くわけでしょ。千日回峰行は、それと一緒なんです」

 では、なぜ、塩沼さんは行屋にならずに済んだのか。そこに確固たる信念があったからだ。

「千日回峰行は、『究極の利他の行ですか?』と聞かれることがあるけれど、千日回峰行自体は、人生における大きな目的ではなく通過点なんです。千日回峰行に入る前から、この行が終わったら、山で悟った内容を里に持ち帰り、世間に身をおいて生活をする、山を下りる、と決めていたんです」

塩沼さんの人生の最終的なプランとは?

 自分の人生の最終的なプランももう持っていると話す塩沼さんは、目標を見据えて研究心と探究心を持って取り組むこと、今も夢があって、その夢に向かって走っているのだという。

「痛い、辛い、きつい、そういう思いをしないと、気づかないものがある。仏教で言うところの『不立文字』(ふりゅうもんじ)、『教外別伝』(きょうげべつでん)というのがそれで、真理や悟りの世界は、文字や言葉では表現出来ないという意味です。つまり、どんな理想にも実践が伴わないとダメってことです。でも、その気づき自体も知識だったりするのでね、そのまま里に下りてきても通用しない。里でもいろいろ経験して初めて山での気づきとリンクしていき、人間的に大きくなっていくんだと思います」

 ランナーにも普通のレースや距離じゃ満足出来ず、自分の限界を押し上げようと、より過酷なレースに挑む人が増えてきている。しかし、決して“レースオタク”になるのではなく、そこで得た経験を普段の生活に活かしてこその過酷さなのだろう。

【次ページ】 自分に対して掴んだ、大きな自信。

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