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世界を果敢に狙った
高山一夫の死闘と誇り。
~フェザー級のパイオニアを悼む~ 

text by

前田衷

前田衷Makoto Maeda

PROFILE

photograph byKYODO

posted2013/12/08 08:01

再挑戦となった1961年の世界戦、防衛に成功したムーアは高山の手を上げ、健闘をたたえた。

再挑戦となった1961年の世界戦、防衛に成功したムーアは高山の手を上げ、健闘をたたえた。

 師走が近づくと、この1年間に物故した元チャンピオンや関係者らのリストを作成し、専門誌の追悼記事を用意するのが筆者の恒例行事になっている。

 今年はなぜか元ヘビー級選手の旅立ちが目立った。モハメド・アリのアゴを打ち砕いたケン・ノートン(享年70)、“白人の希望”トミー・モリソン(44)、タイソンに挑戦して3分もたなかったカール・ウィリアムス(53)。

 そして日本ではあまり伝えられなかったが、エミール・グリフィスが7月に75歳で病死した。ボクシングの聖地マジソン・スクエア・ガーデンで28回もの試合をした人気選手だ。

 とりわけその名を有名にしたのは'62年3月に起きた悲劇であろう。世界ウェルター級王座を巡り1勝1敗だった宿敵ベニー・パレットとの第3戦。12回、グリフィスの猛攻にキューバ人王者はコーナーの鉄柱に頭を強打し、10日後に死亡。全米にテレビ放映されたこともあり、ボクシングの安全性を巡り大論争が起きた。

 試合前の計量でパレットがグリフィスを「ゲイ」と嘲り、これが悲劇を生む要因という説があったが、近年グリフィスは自伝でこれを認め関係者を驚かせた。

勝又行雄との死闘は、日本リング史上屈指の名勝負に。

 日本でも、9月29日、無類の強打を誇った高山一夫が、心不全のために77歳で亡くなった。

 団塊以上の世代には忘れられない名選手だろう。フライ級以外では日本人は世界に通用しないと信じられ、世界王者が1階級1人、計10人しかいない時代に初めて世界フェザー級王座に挑んだ。

 '60年8月、今はなき後楽園球場で行なわれた最後のボクシングマッチは「ルノー(当時小型車で有名)がダンプに衝突するようなもの」と言われた。つまり無謀な挑戦という予想だったが、王者デビー・ムーアをリング外に飛ばしかけるなど大善戦の末判定負け。翌年再挑戦の機会が与えられたが、これも勝てなかった。

 だが高山は人々を熱狂させ続けた。その2年後、宿敵・勝又行雄との一戦ではKO負けを喫したが、壮絶な死闘は日本リング史上屈指の名勝負として名高い。そしてその生涯初のKO負けから僅か1カ月後には、韓国に渡り短期間に2度10回戦で勝利を収めた。十数年前、自らのルーツの国で歓迎されたことを誇らしげに語っていたのが今も印象に残っている。

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