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数々の武勇伝に彩られた
「勘太郎劇場」悲しき終幕。
~山本小鉄の後を追って~ 

text by

門馬忠雄

門馬忠雄Tadao Monma

PROFILE

photograph byEssei Hara

posted2010/12/15 06:00

数々の武勇伝に彩られた「勘太郎劇場」悲しき終幕。~山本小鉄の後を追って~<Number Web> photograph by Essei Hara

現役時代は、小柄ながらパンチの効いたファイトで観客を魅了。若手を厳しく鍛え上げた

 相次ぐ悲報に言葉もない。山本小鉄さん(享年68)が死去してまだ3カ月足らず。なにもヤマハ・ブラザーズのパートナーだからといって、小鉄ちゃんの後を追うことないじゃないか。

“突貫小僧”の異名で鳴らした星野勘太郎(本名・星野建夫)さんが11月25日、肺炎のため都内の病院で亡くなった。67歳だった。

 勘太郎さんは'09年2月、脳梗塞で倒れて入院。社会復帰を目指し、リハビリに励んでいたと聞く。筆者も同じ病を患っており、人ごとではなかった。東京オリンピックの前、'64年夏からの付き合いだ。日本プロレス、新日本の巡業で寝食を共にしてきた仲である。残念でならない。

 170cmの小柄な体ながら、イビキだけは横綱級。寝起きはよくない。日プロ時代のことだ。定刻通りに列車は出たが、車内を見渡すとひとり足りない。日プロ一行を仕切る篠原長昭リングアナウンサーは大慌て。その日の試合地に着いてすぐ、前夜泊まった旅館に電話した。

「押入れに星野さんが寝ているから、叩き起こして下さい」

 神戸商高時代はボクシング部に所属。当時の日本フェザー級王者で同郷の高山一夫を頼って上京するが、高山に「お前は手が短いから、プロレスラー向きだ」と言われ、力道山の門を叩いたという“伝説”がある。

ベストバウトは、猪木と組んだ第1回NWAタッグリーグ戦での優勝。

 なにしろ喧嘩早い男であった。口より先に手が出る。渋谷にあったリキ・パレスで、日本ミドル級王者の金田森男と口論となり、金田をブッ飛ばしたことがあった。仲間のレスラー大熊元司を殴り、鼻血にまみれさせたこともある。新日本では、若手の前田日明にヤキを入れるなど、リング外の武勇伝は枚挙に暇がない。

 '95年2月に現役を退いた勘太郎さん、生涯のベストバウトは、'70年11月、アントニオ猪木と組んだ第1回NWAタッグリーグ戦での優勝だったろうと思う。

 驚かされたのは、'02年8月、黒いスーツに白のネクタイ姿で、「魔界倶楽部」の総裁として復活したことだ。ワルの大男たちに「ビッシ、ビシ」命令を下すパフォーマンスは絵になった。血の気の多かった「勘太郎劇場」の幕引きは、やはり寂しい。「鬼籍」に入っても、小鉄ちゃんとヤマハ・ブラザーズを組むのだろうか――合掌。

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