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寺山修司、没後30年に思う――。
競馬を愛した偉人が残したもの。 

text by

島田明宏

島田明宏Akihiro Shimada

PROFILE

photograph byMotohisa Ando

posted2013/05/03 08:00

寺山修司、没後30年に思う――。競馬を愛した偉人が残したもの。<Number Web> photograph by Motohisa Ando

1966(昭和41)年、中山競馬場での寺山。「俺に逢いたいと思ったら、家へ訪ねてくるよりも日曜日の競馬場のほうが確実だよ」と語るほど、足しげく競馬場に通ったという。

寺山修司という存在を持つ競馬ファンの幸せ。

 今、没後20年のときとは比較にならないほど寺山が注目されているのはなぜか。

 生前の寺山を知らない世代の若者たちが寺山ワールドに共鳴し、「増殖」しているのは、「寺山ワールド」が、ツイッターやフェイスブックといった現在の情報ツールと相性がいいからではないか。かつて「前衛」だとか「アングラ」と言われていたころも、マスメディアによってよりも、クチコミなど個人が発信者となる手段によって拡散され、受け入れられたのだと思う。

 ところで、「競馬における寺山修司」のような存在が、ほかのスポーツにもいただろうか。

 すぐには思い浮かばない。そう考えると、亡くなってから30年経った今もこうしてあれこれ思いを巡らすことのできる私たち競馬ファンは幸せなのかもしれない。

寺山ならどう思っただろうと考えるだけで競馬場の風景が変わる。

 寺山は「逃げ馬」が好きだった。前述した報知のコラムで逃げ馬を買い目に入れるときは、タマミという逃げ馬と、飲んだくれの夫から逃げたホステスのたまみをからめて書いたり、店の金を持ち逃げした出前持ちを「責任感がないと責めるだけでなく、少しは見守ってやろうよ」と書いたりしている。

 もし寺山が、'90年のダービーを逃げ切ったアイネスフウジンの走りを見て、その後沸き起こった「ナカノコール」を聞いたらどう思っただろうか。稀代の快速馬サイレンススズカの逃げを、寺山ならどんな言葉で表現しただろうか。

 寺山は、吉永正人を贔屓にしていた。'83年春、吉永が乗ったミスターシービーが皐月賞を勝つと書いた報知のコラムが、競馬に関する絶筆となった。シービーが4月17日の皐月賞を勝つところは見届けたが、しかし、5月4日に亡くなった彼は、シービーが5月29日のダービーと11月13日の菊花賞を勝って三冠馬となるところを見ることはできなかった。

 寺山ならどう思っただろう。そう考えてみるだけで、競馬場の風景も、ゴール前の叩き合いも、今より人間臭く感じられそうな気がする。

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